奈良時代の終わり、母方が下級貴族のため皇統とは無縁とされ東大寺などの寺院に住まわれ親王禅師と呼ばれていた親王がいました。ところがその父が60歳を過ぎて天皇となりました。それでも皇太子は、内親王を母とする他の皇子でしたから、まだ皇統とは無縁だと思われていました。

 

しかしその三年後、皇后と皇子が廃される事件が起き、突如禅師の兄が皇太子となることになりました。山部親王、後の桓武天皇です。山部親王はこの時、初めて親王となり、それまでは王であったことが皇統からいかに遠かったかを物語っています。

 

その9年後、兄が譲位により45歳で即位した時、父の光仁天皇の勧めによって還俗し立太子されたのが親王禅師と呼ばれていた早良親王、桓武天皇の同母の弟です。

 

これは即位当時、既に桓武天皇は45歳を過ぎていたこと、そしてその第一皇子である安殿親王がまだ幼かったことから、桓武天皇が崩御し安殿親王が幼帝となることを回避するためだったとみられています。

 

またそれまで禅師と呼ばれていた早良親王には妻子がなく、皇太子になっても妃を迎えたり子を為した記録もなかったといいますから、早良親王が皇位に就いても安殿親王に皇位が引き継がれるとみられていました。

 

ところが、その4年後の延暦4年(785年)、長岡京遷都のための造長岡宮使の藤原種継暗殺事件が起き、捕らえられた者の中に桓武帝を廃して早良皇太子を立てようと計画したと自白する者がでてきたのです。

 

早良親王は捕らえられ乙訓寺に幽閉されました。その後淡路に移配されるまでの10日あまり飲食を絶った親王は、延暦4年9月28日、西暦では785年11月8日、1232年前の本日、移送の途中河内の国高瀬橋辺りで憤死したといいます。36歳でした。

 

種継暗殺に早良親王が関与していたかどうかは不明ですが、長岡京造営の目的の一つが東大寺などの寺院の影響力排除があったこと、そしてその寺院の繋がりが強い早良親王がその遷都の阻止を目的として暗殺を企てたと疑いをもたれたという見方があるようです。

 

親王の屍は淡路に送られて葬られ、天智天皇の山科山陵、光仁天皇の田原山陵、聖武天皇の佐保山陵に皇太子の早良親王を廃する報告をし、翌年、安殿親王が皇太子に立てられました。

 

 

しかし皇太子が発病し、桓武天皇の妃が相次いて三人病死し、またその母君も病死、さらに疫病の流行や、洪水などが続き、早良親王の祟りであるとされました。

 

そのため延暦9年、早良親王の親王号は復活され、同11年には親王の霊への鎮謝が相次いで行われ、同19年には親王に崇道天皇の尊号が追贈されたのです。

 

その後も崇道天皇の怨霊鎮祀が行われ、同24年には改葬崇道天皇司の任命があり、墓を山陵とし、大和(奈良)の八嶋陵に改葬されました。山陵とは天皇や皇后、太皇太后、皇太后のお墓のことです。

 

 

貞観5年の神泉苑での御霊会では御霊の一つとして祀られており、後に御霊信仰へとかわっていくことになります。

 

早良親王が祀られている神社

 

崇道神社・・・京都左京区

おもに奈良から西日本を中心に点在し、崇道天皇社、崇道神社、また宗道神社、惣戸神社の字があてられたものもあります。なお、中には早良親王が祀られていない事例もあるとのこと。

 

御霊神社・・・奈良市

 

崇道天皇社・・・奈良市

 

嶋田神社・・・奈良市

 

八嶋陵(崇道天皇陵)・・・奈良市 

 

 

こうしたことこが続いたことは、桓武天皇の皇子達の成長にも影響を与えたと思われれるのですが、その怨霊の標的とされた第一皇子である平城天皇(安殿親王)とその同母弟の嵯峨天皇に、対照的に現れているように思われます。

 

平城天皇は、嵯峨天皇へ譲位後、薬子の変を起してしまいます。しかし嵯峨天皇は兄を入道させるにとどめ、善政を敷き、その後譲位した後も、その御存命中には皇族同士の争いのない時代を維持しました。ただ、その存在の大きさゆえ崩御後すぐに後継問題が起きたことが残念ではあります。