応永二十六年六月十八日、1419年7月10日、伏見宮貞成(さだふさ)親王の第一王子として彦仁(ひこひと)王が誕生されました。

 

伏見宮家は崇光天皇の第一王、栄仁親王を祖とする持明院統の嫡流に当たる世襲親王家で彦仁王は崇光天皇の曾孫にあたります。

 

第百一代称光天皇の御世でしたが、天皇には皇子がなく弟も薨去されていたので、天皇が崩御されると後小松上皇は彦仁王を猶子に迎え皇位につけました(後花園天皇)。



 


貞成親王は伏見宮家の二代目当主でしたから、宮家の役目を果たしたことになります。称光天皇までは崇光天皇の同母弟である後光厳天皇の系統でしたので、貞成親王は嫡流の崇光院系に戻ったことを喜び「椿葉記(ちんようき)」をあらわして帝王の徳を諭し、後花園天皇もこれに応えて徳行を重ねたといいます。
すめらぎのお話・・・崇められ味方になりました

 


後小松上皇の院政が崩御されるまでありましたが、その後三十年余り親政を行いました。しかし、後小松上皇崩御の時は、まだ十代半ばでしたから、貞成親王の補助があったのでしょう。

 

御在位中は、室町幕府の時代で将軍は、六代義教、七代義勝、八代義政です。

 

長い治世でしたから、様々な事が起きております。近江の正長の土一揆は農民が初めて起こした一揆でした。その他、地侍の一揆、「永享の乱」「結城合戦」「嘉吉の乱」「享徳の乱」「長禄・寛政の飢饉」「長禄合戦」が起き、延暦寺僧侶の訴訟に関わる騒動、「文安の麹騒動」もあります。これは幕府と守護達が互いに争うことが続いていたことによるもので、「嘉吉の乱」においては将軍足利義教が暗殺されています。そこに、台風や大雨による水害や飢饉や旱魃、虫害、疫病も起こり、一揆が発生するなど治安が悪化しました。

 

天皇は時にこれらに対して論旨を発するなどの政治的役割を果たした他、疫病・飢饉の際の将軍足利義政の贅沢を戒めています。そのため天皇は「近来の聖主」と称えられました。

 

義政を戒めるために送った詩

 

残民争いて採る首陽の蕨

処々廬を閉じ竹扉を鎖す

詩興の吟は酣なり春二月

満城の紅緑誰が為に肥えたる

 

これは飢えに苦しむ庶民と有楽を事とする天上人を対比する戒めの内容となっています。

同時代には、朝鮮半島では李朝第四代の世宗が「訓民正音」というハングル文字を公布しましたが、明治時代に寺内正毅初代総督が取り上げ学校教育にも取り入れるまでは使用されませんでした。

 

欧州ではオスマントルコの攻撃を受けコンスタンチノープルが陥落し、東ローマ帝国が滅亡しています。

 

「新続古今和歌集」が勅宣により撰上されています。

 


在位三十七年で皇子の成仁(ふさひと)親王に譲位し(後土御門天皇)、院政を行いましたが
「応仁の乱」が起きると自らの不徳を悟り出家されたといいます。

 

この時代は乱世へと続く時代で、この後の天皇は困難な時代となっていきますが、そうした時代でも変わらず凛とした姿勢を天皇が貫くことができたのは、こうした時代の始まりに後花園天皇の存在があったことも大きかったのではないかと思われます。
すめらぎのお話・・・乱世に権威を示すということ

 



参照:「宮中祭祀」
「天皇のすべて」
「歴代天皇事典」

「歴代天皇100話」

「歴代天皇で読む日本の正史」




最後に御自身のお立場と御覚悟を詠まれた御製を紹介します。

思へただ
空にひとつの
日の本に
またたぐひなく
生まれ来し身を