其の壱、漫画家は原稿のストックが出来てこそ一人前
こんばんは、マヨラ13です。
時期的にそろそろですが歴史は少しお休みをして今回からは、「読書の喜び」について語っていきたい。
しかし、「読書の喜び」といっても「本を読むのは苦痛」という人が多いんじゃないかな。
コンピューター世代というか「読書は苦手」という人も多いと思います。
いろいろな人がいると思う。
それはそれとして、確実に言えることは「読書の喜び」を知っている人と知らない人では
人生の深さ、大きさが、まるっきり違ってしまうということです。
一冊の良書は、偉大な教師に巡り会ったのと同じです。
読書は「人間だけができる特権」であり、いかなる動物も読書はできない。
自分の人生は一回きりだが、読書によって、何百、何千のほかの人生に触れることもできるし
二千年前の賢者とも話もできる。
読書は、旅のようなものです。
東へ西へ、南へ北へ、見知らぬ人たち、見知らぬ風景に出あえる。
しかも、時間の制約もない。
アレキサンダーとともに遠征したり、ソクラテスやユゴーとも友だちになれる。語りあえる。
「徒然草」の兼好法師も「ひとり、ともしびのもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とする」と表現しています。
こんな喜びを知らないとは、何ともったいないことかw
宝の山を目の前にしながら、何もとらないで帰ってしまうようなものだ。
多くの偉人は必ずと言っていいくらい、若い時に人生の「座右の書」をもっていた。
それは自分を励まし、リードするとともに、自分の親友であり、師匠と言える。
読書には、人生の花があり、川があり、道があり、旅がある。
星があり、光があり、楽しみがあり、怒りがあり、大いなる感情の海があり、知性の船があり、果てなき詩情の風邪がある。
夢があり、ドラマがあり、世界があるんです。
そして、大事なことは、どんな「喜び」でも、それなりの練習、修練、努力が必要だということです。
スノボーの喜びといっても、スノボーを練習しなければ味わえるはずがない。
楽器を弾く喜びも同じ、パソコンを操作する喜びも同じ。
読書も、それなりの努力、挑戦、忍耐があって初めて「喜び」がわかってくるんです。
いったん、その喜びを知った人は強い。
「本が友だち」になった人は強い。なにしろ、人類の古今東西の精神の「宝」を、自由自在に味わい
くみ取り、使いこなしていけるんだから。
その人こそ「心の大富豪」です。
お金で言えば、銀行をいくつも所有しているようなもんだ。
必要なときだけ、いくらでも引き出せる。
史、扇風機つけっぱなしで寝ちゃうとお腹こわしちゃうから気をつけて!
こんばんは、マヨラ13です。
過去の真実を見極めるのは至難のわざです。
とくに歴史書は、ほとんどが「勝者の歴史」です。
「勝てば官軍」と言うが、「勝ったほうが正義」とされる。
負ければ悪人にされる、そこを見なければいけない。
「正しい歴史」を絶対に書き綴らねばならない。
そして、だからこそ断じて負けてはいけない。
「正義が勝つ」歴史を絶対につくらなければいけない。
「史観」と「史眼」が大事なんです。
レンガを集めただけでは家は建たない。
事実を集めただけでは歴史は書けない。
そこに「どう事実を組み合わせたか」という、歴史を書いた人の「哲学」が隠されている。
それを見抜くことです。
歴史書を見ながら自分の眼を磨き「これは、そうであろう」「どうも違う」「こっちのほうが正しいのではないか」と
正しさを探求することです。
そういう心を磨くことが、歴史観を養うことになる。
そのためには、こうすればいいという簡単な方法はない。
やはり、ありとあらゆることを多く学び、多く考え、多く体験する以外にない。
大事なことは、どこまでも公正に、利己主義にとらわれず「事実」を追及し「真実」を探求することです。
うそはいけない。
太平洋戦争時代の歴史の取り扱いが問題になっているが、どんなに恥ずかしいことであろうが、事実は事実として残すことが、日本民族にとっても、人類にとっても、大切なことです。
その歴史は、永遠の流転の一コマですが、真実をきちんと残し、積み重ねていかないと、正しい歴史観がゆがめられ、また未来に不幸を重ねてしまう。
正しい歴史を残すことが、人類の平和と幸福の道を残すことになるんです。
歴史は、ゆがめたり、歪曲したりしてはいけない。歴史をつくってしまっては小説になってしまう。
悪いことを隠し、格好のよいことだけを残しては、歴史書ではなく虚飾書になってしまう。
歴史は客観的に正確に書き、証拠・証人を大事にしなければいけない。
ドイツでは、ナチスの歴史について「年間、約六十時間の授業」を行うのが望ましいとされ
強制収容所の見学も、強く勧められています。
過去の過ちを、しっかり見据えようとする姿勢がうかがえます。
統一ドイツのヴァイツゼッカー初代大統領はすごい立派な人物だと言います。
「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」
という言葉は有名です。
個人でも「うそをつく人間」は信用されません。
戦争の真実を伝えないために、どんな理屈をつけてもむなしいだけです。
参、なめらかなポリゴンは人の心もなめらかにする
本当は、アジア諸国の民衆と友好の心と心を結んで、全世界を平和の方向へもっていくべきであった。
そういう「歴史観」即「未来観」を指導者がもっていれば、日本の近代史は、まったく違うものになったでしょう。
歴史観は大事です、指導者が、歴史を誤って理解していると、さまざまな決定に悪影響が出て、それが原因となって、さらに間違った方向へ社会が進むことになる。
本当は、コロンブスが「発見」したんではなく、そこで、お互いに
「出会った」
「出会い」史観であれば、対等です。
少なくとも相手に対する敬意がある。
最も実態は、一方的な「侵略」だったわけだが。
また、大航海時代の「英雄マゼラン」だけを教えて
「侵略者マゼラン」を倒したフィリピンの抵抗者ラプラプの戦いを教えなければ、自然のうちに「発見」史観を宣伝していることになるんです。
一つの歴史的出来事も歴史は実像を伝えているとは限らない、見る角度で百八十度変わる。
歴史的出来事だけではなく、今の出来事でさえ、見る角度や意図によって、全然違ってくる。
たとえば、ある国で民衆がデモをしているとする。
止めに入った警察と乱闘になった。
その時、テレビカメラが民衆側から撮れば「警棒を振りおろす恐ろしい顔つきの警官」がクローズアップになる。
反対に、カメラが警官側から映せば、鎮圧に抵抗して「石を投げたり、暴れるデモ隊」の一部がクローズアップされるかもしれない。
見た人は暴徒が暴れていると思う。
どちらの側に立つかで百八十度、違う情報になる。
どちらの映像も、それはそれで「事実」かもしれない。
しかし、「真実」がどこにあるかは別問題です。
また「デモがあった」という事実も、なぜデモが起こったのか、なぜそれが抑圧されたか、そういう背景を知らなければ、本当に「真実」を知ったことにはならない。
今は、高度情報社会と言われていますが、情報の「量」はすごくても「質」はどうかが問題だと思います。
「民衆の側」から伝えられた情報か
「権力者の側」か。
また情報の意図が
「金もうけ」や「人をおとしいれる」だけの場合も、あまりにも多い。
弐、財布は尻ポケットに入れるな
夏休みの自由研究に困っていたら、時間のある時に歴史を考えてみるのも面白い。
「歴史は繰り返す」という人もいます。
「歴史は繰り返さない」という人もいます。
どちらが正しいのか。
歴史は、言うなれば、人類の傾向性、因果性、科学性です。
「人類の統計学」とも言える。
たとえば、天気は完全に予測することはできないが、統計的にとらえて傾向性を見ることができる。
人間の心も、よくわからないが、歴史を追っていくことによって傾向性を見ることができるんです。
だから「歴史」の研究は「人間」の研究と言ってよい。
とくに、全員が歴史家になるわけではないんだから、大切なのは、歴史を「鏡」として、未来をどうつくっていくかということです。
自分自身が、新しい歴史をつくるんです。
「鏡」がないと、自分の顔も姿もよくわからない。
「鏡」があれば、ここはこうすればいいとわかる。
日本では古来、歴史書を「鏡」と読んできた。
「大鏡」とか「今鏡」「水鏡」「増鏡」と。
今、残っている歴史の全体を、個人で把握することは、なかなかできない。
だから大事なのは、歴史観をしっかり身につけることなんです。
歴史を通して、人間の悪い傾向性を知れば、気をつけて、悪い歴史を繰り返さずにすむ。
悪い歴史を繰り返すのは「歴史の教訓に学ばなかったから」とも言える。
いつ、何があったという表面的な学び方だと、歴史の面白さはわからない。
基本をしっかり学ぶことは大事ですが、もっと大事なのは、歴史を通して
「真実」を見極める眼を磨くことです。
ナポレオンは「歴史は合意の上の作り話だ」と言ったが、たしかにそういう面がある。
もちろん、一つの事象の起こった年月日などは厳然たる事実だろうけど。
ある場合には、真実とは正反対のことを伝えているかもしれない。
伝えられていない、もっと大事なことも、あるに違いない。
私の恩師も「本の歴史は間違いだらけだ。自己の歴史には、自己の胸中の歴史だけは、一分の、嘘も、飾りも書けぬことを知れ。」と言っていた。
片方の歴史書に書かれた文字を、うのみにしてはならない。
たとえば、十字軍の歴史もそうです。
十字軍戦争について、ヨーロッパ側とアラブ側の記述には、共通するところが、ほとんどないという。
日本では、ほとんどの史料はヨーロッパ側のものです。
考えてみれば当然ですが
アラブ側から見ると、まず「十字軍」などという美名はない。
たんなる「侵略者」にすぎない。
じつは当時はイスラム世界のほうが、はるかに高い文化水準を誇っていたという。
それを侵略し、破壊し、略奪したわけです。
少なくとも、アラブ側から見ればそうです。
残虐きわまる十字軍の行為も記録されている。
十字軍をどう見るかという歴史観は「過去」の問題だけではない。
イスラム世界への偏見は、今も根強く残っているし、世界の平和に大きな影を落としている。
「現在」の問題なんです、ゆえに「未来」の問題にもなる。
また「コロンブスがアメリカ大陸を発見した」と、かつては、よく言われていた。
しかし、当然のことだが、すでに大陸には人々が住んでいたわけです。
ヨーロッパから見れば「発見」であっても、先住の人々から見れば、そうではない。
問題は「発見」という言葉のなかに、先住の人々を見下し、差別する傲慢がこめられていることです。
自己中心というか「征服者(コンキスタドール)」たちは先住の人々を人間と見ることさえしなかった。
島々で虐殺や強制労働が行われ、人口は激減。
ほとんど絶滅の危機に瀕したんです。
しかも、先住の人々は、彼らを歓迎し、優しく助け、もてなしたのに、それを裏切って、残酷な暴力を振るった。
こういう歴史的事実を、どう見るか。
「コロンブスが発見した」という歴史観は
発見した側を正当化してしまう。
そしてまた同様の行為を許してしまう。
「発見」という一つの言葉のなかに、自分たちは他民族を征服する資格があるんだという、独善的な歴史観、人間観がこめられているんです。
植民地史観とでも言おうか、これが、その後、五百年間にわたって、南北アメリカ大陸はもちろん、アフリカでもアジアでも、世界で無数の悲劇を生んできたんです。
だから歴史観は大事です。
「発見」史観からは、「征服」の未来が生まれる。
不幸です、悲惨です。
じつは、日本のアジア侵略の背景にも、これがあった。
明治以降「ヨーロッパに追いつけ」と走って
「アジアの中のヨーロッパ人」になることが目標になった(脱亜入欧)(だつあにゅうおうと言う)
その結果、アジアの同胞に対して、コロンブス以後の残酷な「征服者」のように振る舞った。
往々にして、白人に対しては卑屈になり、その他の人種に対しては傲慢になる。
という、今も変わらぬ日本人の二面性も、こういうなかから生まれてきたんです。
壱、黒船は沈む時も派手
こんにちは、マヨラ13です。
三度のご飯より、歴史が大好きという人もいれば、授業は暗記ばかりで面白くないという人もいます。
たしかに学校での歴史の授業には批判が多いと思います。
なかには、感動的なエピソードを話してくれたり、映像を使うなど工夫してくれている先生もいますが。
一つは、物事を大きく見られるようになる
例えば、道を歩く時も、下ばかり見ていたら、かえって道に迷ってしまう。
大きな目印になるものを見つめて、それを目あてに進めば正しい方向に行ける。
また山の上から広々と見渡せば、行くべき道がわかってくる。
人生も、それと同じで、小さいところから、物事を見て、小さい事にとらわれていると、悩みの沼に足をとられて、前へ進めなくなってしまう。
克服できる問題でさえ克服できなくなる。
大きいところから物事を見ていけば、いろいろある問題も、おのずと解決の道が見えてくるもんです。
これは個人の人生でもそうだし、社会と世界の未来を考えるうえでも同じです。
歴史から時代の方向性が見え、どのように時代をもっていったらよいかが見えてくるんです。
文豪ゲーテも
三千年の歴史から学ぶことを知らぬものは
知ることもなく、やみの中にいよ、その日その日を生きるとも
と言っている。
だから、ちっぽけなことにとらわれるな、悩みがあればあるほど、歴史を読む事だと言っておきたい。
歴史を学ぶことは、自分が、その時代を生きることになる。
そこには熱血の革命児もいれば、裏切りの卑劣漢もいる。
栄華の権力者もいれば悲劇の英雄もいる。
戦乱と、その合間の、わずかな木漏れ日のような平和がある。
今から見れば迷信にしか見えないことのために、大勢が命を奪いあったり、また、人間愛のために自分を犠牲にしていった正義の人もいる。
極限の苦悩から立ち上がって、不可能を可能にした偉人たちもいる。
そういう歴史の絵巻を、距離感をもって見ることもできるし、その真っ只中に入って見ることもできる。
歴史は、人間の心の映像です。自分の心に、歴史のドラマの映像を映していくんです。
そこから自然のうちに、大きな目で、ものごとを見られる自分になっていく。
滔々たる歴史の大河の最先端にいる自分というものを考えるようになる。
自分はどこから来たのか、どこにいるのか、どこに行くのか。
歴史は現在の自分の「ルーツ」根っこでもある。
歴史を深く学んだ人は、自分の根っこを認識し、自覚できる。
「歴史を知る」ことは、結局「自分自身を知る」ことに通じるんです。
また自分自身を知り、人間自身を深く知るほど、歴史の実像が、ありありと見えてくるんです。
それが「史観(歴史観)」であり「史眼(歴史を観る目)」です。



































