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自分自身からは逃げられない

やるべきことから「逃げる」のは「自由」ではないのか。

もちろん「逃げる自由」もある。

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しかし、それは小さな自由だ。最後は、何の力もない、ひ弱な自分になり、行き詰まり、最大の不自由の人生になってしまう。

小さな自由に対して、大きな自由もある。

「苦に徹すれば珠となる」という吉川英治(小説家)の言葉がある。


苦しんで苦しんで自分を磨きぬいていけば、珠のように厳然と輝く自分になれるんです。

「珠」となれば、何ものにも負けない。自由で勝利です。

それを自覚していれば「苦労」でさえ楽しみです。

自分が決めて、あえて苦労していく、それが「大きな自由」です。

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船は、海があり、波があるから航海できる。

飛行機は、空気の抵抗があるから揚力が生まれ、空を飛べる。

おなかがすいてるからこそ、ご飯がおいしく感じられる。


自由とは、相対的なもんです。

何もかも自由になることなど、現実には、ありえない。

不自由があるから、自由を感じられる。

空気の抵抗が何もない真空状態では、飛行機は、飛べないんです。

また、不自由は、自由を求めているからこそ感じるとも言える。


「自分は自由だ」と言って、苦労から逃げても「自分自身」からは、逃げられない。

自分の弱さや性格、宿命からは逃げられない。

自分の影から逃げられないのと同じです。

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生老病死すなわち、生まれ、生きる苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、死ぬ苦しみから逃げられるわけではない。

苦しみは、逃げれば逃げるほど追いかけてくる、犬のようなものだ

だから、立ち向かうしかない。

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自由とは、どんな境遇にも負けない強さ

今回のテーマは「自由」についてです。

「君は自由か?不自由か?」と聞かれると、大半の人は「不自由だ」と感じる時がある。

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「学校の規則が厳しすぎる。携帯ダメ、茶髪ダメ、靴下もうるさい、指定以外のカバンもダメ。」

「スカートは、ひざが隠れてないとダメ。そんな学校はイヤだ。」との声もよく聞く。

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また、親の干渉がイヤだという意見もあります。家で自分あてに電話がかかってくると「誰から?」と聞かれる。

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夜、行き先を告げて外出しても、何度も携帯で呼び出される。

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「愛情と取ることができない場合があります」と。

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不満がいっぱいあるねww

意味は、よくわかるし、そのとおりで、誰だって他人から束縛されたくないし、楽をしたいと思うのが人情だ。

規則がなければ、また、お金や時間がいっぱいあれば、うちの親がいなければwどんなに自由だろうと思っている人もいるだろう。

しかし、それは、まだ人生を浅く考えているし、社会の表面だけを見ている。

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資産家で世界中を旅行し、贅沢をしながら、働かないで、大変に自由のように見えていても、心は空虚な人もいる。

周りからは、最高の自由の人生であるかのように思われていても、逆に、苦しみ、むなしく、自由である度合い以上に「不自由な自分」に縛られている場合が多々ある。

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自由といっても、自分が心の底から「何を」したいと願っているのか。

自由とは、遊ぶ事ではない。浪費することではない。時間があることではない。休日が多いことではない。

気分のまま気ままに生きるのは「放縦」であって「自由」ではない。

自由とは、いかに、自分自身を高揚させていくか、自分自身の目標に向かっていくか

その中にこそ、黄金のような「自由」が散りばめられ、光っているんです。

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実は、自由があるからこそ、勉強できる。

自由があるからこそ、学校へも行ける。

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それを不自由ととらえるところに、人生の大きな錯覚がある。


学校に行くのを、権利ととるか、義務ととるか。

自由か不自由なのか

自分自身の哲学、知恵をもっているかどうかで、すべてが変わってくる。

「受け身」になったら、どんなに自由な環境であっても「不自由」な自分になる。

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「攻め」の一念になれば、どんなに不自由な環境であっても「自由」な自分になれる。

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病気の人は、学校に行けない。戦争中の国の子どもも、学校にいけない。

行ける人は、行ける自由がわからない。行けることは最大の自由なんです。勘違いしてはいけない。

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アメリカで多発性骨髄腫という病気にかかった青年がいる。

次第に身体が衰えていく、骨の癌です。


彼は、最後の二年間、全身をギプスで固め、車椅子に乗ったまま地域の高校を回り、薬物乱用が、いかに害をもたらすか話をした。

「君たちは、自分の身体をニコチンやアルコールやヘロインで壊してしまいたいと思っていますか?自分の身体が車の中で粉々になってしまえばよいと思っていますか?気持ちが沈み込んで、金門橋から身を投げ出したいと思っていますか?もしそうなら、私にその身体をください!!それを私の物にさせてください!!私はそれが欲しいんです!!私は生きたいんです!!」

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講堂での彼の演説を聴いて、皆、身体が震えたという。

(ジュリアス・シーガル「生きぬく力」)


旧ユーゴの戦争のなかで、子どもたちは言っている。

「ぼくにはいろんな夢があったけど、戦争がすべてを奪ってしまった」

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「ぼくらの夢は友だちがみんな一緒に普通の暮らしができるようになって、学校へも行けるようになることだ」と。

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(失われた思春期)


アフリカのルワンダでも、残酷な内戦(1990-1994)があった。

ある少年は、親を失い、おばあさんといとこ達だけになってしまった。

だれかが働いて暮らしを支えなければならない。

子どもたちの一人は、学校をあきらめざるをえなかった。

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結局、この少年が働くことになった。つらくて、何度も何度も朝まで泣いた。

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今は、学校に行っているいとこから勉強を教わっているそうだ。(毎日新聞1997年7月19日付朝刊)


そういう人たちに比べたら、日本の高校生は、どんなに自由かということであるけど

それだけでは、環境がすべてを決めるような考え方になってしまう。

そうではない。人間とは、人生とは、そんな簡単なものではない。


有名なヘレン・ケラーを知っているでしょう。

彼女は一歳半で、目も見えず、耳も聞えなくなってしまった。

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もちろん話す事もできなかった。しかし、サリバン先生との努力によって、読み書きを覚えハーバード大学

当時は、ハーバード大学に併設された女子学生専門のラドクリフ大学を卒業した。

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三重苦、不自由と言えば、これほどの不自由はないかもしれない。

「闇」と「沈黙」だけが彼女の世界だった。

しかし、彼女は、自分の心から「闇」を追い出した。

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九歳の時、彼女は初めて自分の声で「暖かいです(It is warm)」と一つの文章を発音出来た。

そのときの「驚きと喜び」を彼女は生涯忘れなかった。

話せないという「沈黙の牢獄」から抜け出すんだと戦って、彼女は勝ったんです。

彼女は負けなかった。誇らかに、希望という「太陽」に顔を向け続けた。

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勉強についても、他の学生が楽しく踊ったり、歌ったりしている間に、彼女は「指文字」で教科書を教えてもらいながら、時にはくじけそうにもなった。

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「私は、幾度かすべり落ちたり、転んだり、立ち止まったり、離れた障害物にぶつかったり、腹を立てたり、沈んだり、機嫌をなおしたりしながら、重い足を引きづりつつ少し先へ進んでは幾らか元気を回復し、いっそう熱心をふるい起してさらに高く登り、しだいに開けゆく地平線を見はじめるのでありました。一つの苦闘は一つの勝利でありました。」

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彼女は、言っている。

「そうだ、心のワンダーランドにおいては、私は他の人と同じ自由を持つであろう」

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彼女の勝利宣言です。彼女は「自由」を自分で勝ちとったんです。

「自由」という山頂に自分ではい上がったんです。

(ヘレン・ケラー「わたしの生涯」から引用・参照)

青春の語源

ところで「青春」の語源は何だろうか?

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それは昔、中国で「春」の色を「青」としたことに由来する。

春夏秋冬の四季に、それぞれの色があるとして

「青春」「朱夏(しゅか)」「白秋(はくしゅう)」「玄冬(げんとう)」と呼んだ。


詩人の北原白秋は、この白秋です。

朱夏の朱は赤いこと。玄冬の玄は黒いということ。

それぞれ季節の感じがよく出ている。


人の一生で言えば、幼少年時代は玄冬。

万物が萌え出ずる春に備えて、大地の下にエネルギーを蓄えている。


そして、時来たり、青春の季節になれば、生命は一斉に「伸びよう!」「花開こう!」と動き始める。


英語の「Springスプリング(春)」も、バネのように「弾む」意味がある。

日本語の「春」も、内側から外にエネルギーが「張る」意味があるという。


「青春」を方角で言えば「東」で、太陽が出る方角です。

(朱夏は南、白秋は西、玄冬は北)

青春は太陽に顔を向けて生きるんです。

「伸びる季節」であるがゆえに、楽しさも大きいかわりに、苦しさも大きい。

青春は悩みの季節です。


だからこそ、苦しさから逃げてはいけない。

苦しみながら、悩みながら「太陽」を求め「太陽」に向かって進むんです、負けてはいけない。

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芽が出るには、種子の硬い殻と戦わなくてはならない。

青空のもとに芽を出すには、厚い大地を突き破らなくてはならない。

今の苦しみは、そのための苦しみです。

伸びているから悩みが絶えないんです。

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だから、苦しくても、つらくても、前へ進むことをやめてはいけない。

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そのように、何があっても「もっと成長しよう」「もっと大きな自分になろう」と頑張る心を「青春」というんです。

その心がある人は、年をとっても「青春」です。


その心をなくしたら、年が若くても老年です。

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正義

正義について、一番の問題は「正義なんて気恥かしい」という風潮だと思います。

「正義というと、何か偽善のようで嫌いです」という人もいるようです。


ただそれは、よく解釈すれば、青春の潔癖さの現れとも言えるかもしれない。


太宰治に「正義と微笑み」という小説がある。

十六歳の俳優志望の青年の日記です。彼は書く。

「僕はひどい偽善者なのかも知れん。よくよく気をつけなければならぬ。十六から二十までの間に人格が決定されるといふ説もある事だ」

「けれども、あまり固くなって『重厚』になりすぎてもいけない。微笑をもて正義を為せ!爽快な言葉だ。以上が僕の日記の開巻第一ペエジ」

太宰治全集


しかめっつらした正義ではなく、自然体の正義でいい。

自分らしく、肩ひじ張らずにいけばいいと思う。


ある人は言っていました。

「「偽善」というが偽善でも「悪」よりはいい。

初めは偽善でも、真剣に善をめざして行動しているうちに、だんだん本物の善になっていくのだ」


皆さんに忘れないでもらいたいのは、そういう「正義をバカにする風潮」を誰が作ったのかという事です。

それは、自分たちが悪い事をしていたい大人たちがつくったのです。

堕落した大人は、格好のいい言葉で飾りながら、心の中は汚れている。

そんな大人が「どうせ正義なんて、ウソなんだ、裏があるんだ」と決めつける。

そうしたほうが、自分たちが楽であり、変わらなくていいからです。


そういうものに影響されて「正義を口にする事が気恥かしい」などと思ってしまえば、こんなにも愚かな事は無い。悪い大人に乗せられてはいけない。

正義など、どうでもいいというのは気楽かもしれないが、その代わり、人生の本当の深さも、喜びも、充実も

向上も、価値も、幸福も、何ひとつ味わえない。

ただ動物のように、欲望に流されていくだけの人生です。

何という、つまらない人生か。


皆さんは、自分が「これは正しい」と信じるものを、まっすぐに貫いていけばいい。

つまずいても、そのたびに、また立ち上がって進めばいい。

そうやって挑戦し続けるなかで、最高の正義の道に進んでいけるんです。




気がついたら半年もの長い間ブログを凍結していました。

大変な国難の中、被災地の方達は頑張っておられる。

少しでも希望を勇気を元気をブログを通して連帯を広げていきたい。

その気持ちの背中を後押ししてくれたのは、ある高校生のメンバーさんのメッセでした。

改めて若さの力強さ、凄さを実感しました、本当にありがとうございます。


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1、夢を掴んだやつより夢を追ってる奴の方が時に力を発揮するもんでさァ

お久ぶりです、こんばんは、マヨラ13です。


今日は「芸術との語らい」がテーマです。

ただ、「芸術」と言うと、どうしても堅苦しい感じがしてしまう。

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でも、鳥の歌を堅苦しいとは、だれも思わないでしょう。

野原一面の花たちを堅苦しいとは、だれも思わないでしょう。

月の光に爛漫の桜が浮かび上がっていれば、だれもが、はっとするでしょうし見とれてしまうでしょう。

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青空を見て「ああ、すばらしいな」と思う。

川のせせれぎに聞きほれて、耳が洗われたような気持ちになる。

その心が「美」を愛する心であり、芸術・文化の心なんです。


決して特別のことではないし、本来、一流の芸術も、自然と同じ様に「人をくつろがせたり」「生命力を与えてくれる」ものなんです。

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また、女性がきれいになろうとすることも「美」の追及であり、芸術・文化に通ずる。

きれいに掃除をしようとすることも「美」の創造であり、芸術・文化に通ずる。

部屋に、一輪、花を飾るだけで、全体が見違えるようになる場合がある。

和やかになってくる。それが「美」の力です。

芸術の世界は「ほっとする」ものであって、身構えたり、窮屈になったりするものではないんです。

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疲れている心を励ましあったり、きゅっと凝り固まった心を、ときほぐし、解放させてくれるのが、芸術であり、文化なんです。


それを堅苦しく感じてしまうのは、芸術が「勉強」の対象になってしまうからかもしれません。

芸術は、まず楽しめばいいんです。

初めから頭で「理解」しようとすると、かえってわからなくなってしまう。

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鳥の歌を「理解」しようという人はいないでしょう。

花の野原を「理解」しようという人はいないでしょう。

もちろん、優れた作品のなかには、味わうのに集中と努力が必要なものもある。

しかし基本は、音楽なら、まず無心に「聴く」ことです。

絵画なら、一心にまず「見る」ことです。

見る前に、考えてしまっている人が多いんです。

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たとえば、美術館に行くことも、日本では特別のことのようになっている。

ヨーロッパなどは、ごく小さい時から美術館に行く。あたりまえのことであり、特別なことではないんです。

それは一つには欧米の美術館が民主主義の結実だったからかもしれない。

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昔、一部の王侯貴族とか大富豪しか美術品を集められなかったし、見られなかった。


それを「私たちにも見せろ!」と言って生まれたのが美術館です。簡単に言うとそういうことです。

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「美」を皆で楽しみたいという民衆の欲求の高まりで生まれたものです。


これに対して、日本の美術館は、明治からの近代化にともなって、政府が「わが国にもヨーロッパのような美術館がないと恥ずかしい」と思って、つくったものです。

「官」主導だったから、どうしても「お前たちにも見せてやろう」という発想になってしまう。

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「ありがたく思え」と。それでは本当に窮屈で、しきいが高くなります。


今はだいぶ、変わったと思うが、伝統というものは根強いもので、まだまだ、そういう発想が、芸術。文化の世界全体に残っていると思う。

本当のところ、文化は「人を楽にさせる」もので、いばる心は芸術とは反対なんだが、それがわからない人が多い。

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自分の心を豊かにし、自分を表現しながら、他の人と何らかの和合をしていこう、交流していこうとする心。

自分の名誉や、もうけではなく「皆を喜ばせたい」という心。

その心をつくっていこうというのが、本当の芸術であり、文化です。

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今の知識人や、権力者には、この点がわかっていない。

自分のため、自分の主張にとどまり、どこまでいっても、本来の芸術や文化にたどり着かない。


だからこそ、皆さんには、本当の「文化の心」をもった人になってもらいたいんです。

その心を磨くためには、美術館に行ったり、音楽会に行ったりすることも大事でしょう。

また、歌ったり、絵を描いたり、工作したりすることも、文化人としての素養を、徐々につくっていることになる。

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受験勉強だけでは、進学のための人生になってしまう。

もちろん、その取り組み自体には一時的はやむを得ないことなんだが、もっと、一生涯にわたる

「自分自身の感性の成長」に何が重要なのかを見失わないでもらいたい。

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芸術に親しみ、なじんでいくことは大切なことです。

試験勉強は知識の追求でしかない。

心を豊かにするのは、芸術・文化です。

学校の芸術の授業も大切でしょう。それは自分自身の世界を広め、深め、和やかにしてくれるもんです。