壱、黒船は沈む時も派手
こんにちは、マヨラ13です。
三度のご飯より、歴史が大好きという人もいれば、授業は暗記ばかりで面白くないという人もいます。
たしかに学校での歴史の授業には批判が多いと思います。
なかには、感動的なエピソードを話してくれたり、映像を使うなど工夫してくれている先生もいますが。
一つは、物事を大きく見られるようになる
例えば、道を歩く時も、下ばかり見ていたら、かえって道に迷ってしまう。
大きな目印になるものを見つめて、それを目あてに進めば正しい方向に行ける。
また山の上から広々と見渡せば、行くべき道がわかってくる。
人生も、それと同じで、小さいところから、物事を見て、小さい事にとらわれていると、悩みの沼に足をとられて、前へ進めなくなってしまう。
克服できる問題でさえ克服できなくなる。
大きいところから物事を見ていけば、いろいろある問題も、おのずと解決の道が見えてくるもんです。
これは個人の人生でもそうだし、社会と世界の未来を考えるうえでも同じです。
歴史から時代の方向性が見え、どのように時代をもっていったらよいかが見えてくるんです。
文豪ゲーテも
三千年の歴史から学ぶことを知らぬものは
知ることもなく、やみの中にいよ、その日その日を生きるとも
と言っている。
だから、ちっぽけなことにとらわれるな、悩みがあればあるほど、歴史を読む事だと言っておきたい。
歴史を学ぶことは、自分が、その時代を生きることになる。
そこには熱血の革命児もいれば、裏切りの卑劣漢もいる。
栄華の権力者もいれば悲劇の英雄もいる。
戦乱と、その合間の、わずかな木漏れ日のような平和がある。
今から見れば迷信にしか見えないことのために、大勢が命を奪いあったり、また、人間愛のために自分を犠牲にしていった正義の人もいる。
極限の苦悩から立ち上がって、不可能を可能にした偉人たちもいる。
そういう歴史の絵巻を、距離感をもって見ることもできるし、その真っ只中に入って見ることもできる。
歴史は、人間の心の映像です。自分の心に、歴史のドラマの映像を映していくんです。
そこから自然のうちに、大きな目で、ものごとを見られる自分になっていく。
滔々たる歴史の大河の最先端にいる自分というものを考えるようになる。
自分はどこから来たのか、どこにいるのか、どこに行くのか。
歴史は現在の自分の「ルーツ」根っこでもある。
歴史を深く学んだ人は、自分の根っこを認識し、自覚できる。
「歴史を知る」ことは、結局「自分自身を知る」ことに通じるんです。
また自分自身を知り、人間自身を深く知るほど、歴史の実像が、ありありと見えてくるんです。
それが「史観(歴史観)」であり「史眼(歴史を観る目)」です。










