泊りがけの付き添いの後、睡眠不足を紛らわそうと二日前に炒れたコーヒー暖めて飲みながらTVを点けました。群馬の6年生の女の子自殺事件での校長の記者会見が映ってました。「いじめがあった」ということを認めるとすかさず記者達が「いじめが原因で自殺したと認めますか?」校長。しばらく絶句無言の後。「今はいじめがあったということだけ・・・」原因だったと否定も肯定もしないまま眼を閉じて立ち往生。よく見ると涙を流してます。前後の状況が分からないで見ると記者の追及が校長への「いじめ」にも見えました。事件の発端。原因は「いじめだ」ということは誰の目にも明らか。でもそれを認めると担任。校長。そして教委。文科省。順に責任を取らなければいけなくなる。防ぎたい。保身の論理が働き、亡くなった彼女からどんどん離れていきます。それは「いじめが原因の自殺ということを認めさせたい」という家族にも言えるような気がします。「被害者」があって「加害者」がいる。それを特定することで終わらせたい。そしてそれは「自分」であって欲しくない。責任の分散はいけないと思いますが家族を含めみんな自分の責任をまっとうしたのだろうか?仮に誰かが責任を認めて一件落着。それで亡くなった彼女が浮かばれるか?そんな複雑な思いがしました。「あなたがたのうち罪の無い者がこの女(マグダラのマリア)に石を投げなさい」という言葉が何故か浮かびます。

  一つ嬉しい発見。病院の駐車場(B1)。入り口に「終日15分100円」と書いてありましたがナースステーションでカードをもらうと最初の1時間に限り100円で済むということを看護師に聞きました。泊まりのときは車で行かないのですが今まで昼間は病院の近くのコインパーキングに止めてました。(ここは20分100円。22時からは1時間100円)これからは上手く使い分けようと思います。ただ・・・病院に営業車で行くと決まって「納品ですか?」とガードマンに聞かれるのが嫌(笑)
  車に例えて「両輪」とよく言われます。以前から思っていたのですが院内介助。院内は医療保険。そこに至るまでは介護保険。この線引きが残酷な場合が多い。それなりの事情があり医院、病院が文書で依頼。ケアマネを通じて役所に申請。それで認められてはじめて院内介助が出来る。それ以外は介護サービスは病院の玄関までになります。実際のところ通院に介助が必要な人が病院に入った途端、なんでもテキパキ一人で出来るということはありません。だったら看護師?忙しそうに歩き回ってる看護師にそんな余裕はありません。ボランティアを配置しているところもありますがごく僅か。どんなシステムもその境界線上は難しい。今回おふくろの入院に際しても認知症患者の入院がいかに大変か、思い知らされました。最近の病院は医療報酬が高い「完全看護」形式がほとんどです。ですから原則付き添いは認められません。例外として医師が「常時付き添いが必要」と認めた患者に対してだけ付き添いが認められます。そしてそれは家族に限る。ウチの場合でも手術が終わった途端から「どこにそんな元気が残ってるのか?」と思うほどの力で繋がれたありとあらゆるパイプを外そうとします。満身の力です。ちょっと目を離すとベッドは血だらけになります。付き添いの仕事はその監視役。それ以外は点滴が終わった時にコールするぐらい。でも看護師の見守りには限度があります。やはり誰かがついていないといけません。今、日中と夜間。手分けして兄弟身内でなんとかカバーしてます。もしそれが出来なくなったらどうするか?下手をすると命にかかわります。ウチがそうだとは思いませんが身内の多い家なら短い期間。なんとかカバーできるでしょう。でもそうでない家や老人ばかりの家族にはキツイ。だったら家族と偽って「付き添いさん」を頼む?調べてみましたがこれが結構な料金。下手なサラリーマンなら月収より高額になります。それでなくても治療費。個室料金。手持ち資金に余裕のある人はいいでしょうがとてもまかないきれない。悲しいけどそこに介護保険が入り込む余地もない。認知症の入院。みんなどうしてるんだろう?。

  突風が吹く寒い一日になりました。つい先日木枯らし1号が吹いたと発表されましたがどういうわけかその後も穏やかな日和が続いてました。そんな中、今日の風。やっぱり1号だけではこの夏の猛暑は払いきれなかったのでしょう。そんなわけで誰も言わないけど「木枯らし2号」明日から寒くなりそうです。今日はハイネックにフード付きのブルゾン。明日は?マフラーにダウンジャケット(笑) 

  それにしても誰が考えたのか「木枯らし」。いい言葉です。字面。なにより言葉の響きがいい。日本人でないと思いつかない言葉でしょう。木枯らしをテーマにしたりタイトルに入れた曲が多いのもうなづけます。笹沢佐保の小説に「木枯らし紋次郎」というのがありTVで放映。映画化もされました。中村敦夫。菅原文太が主役を演じそれぞれ大ヒットしました。薄汚れた三度笠にマントのような道中合羽。無表情で人との関わりを避け(結果的には大いに関わるのですが)それまでの映画の優雅で見栄えのする殺陣が必死の形相でぶざまに殺し合う。ある意味リアルに見える手法を使ったりしていわゆる「よごれ」がうけるようになったハシリではないか?と思います。

   大安の日の昨日、朝、病院に向かう途中、神社で七五三を祝う晴れ着姿の子供たちを見かけました。子供たちの晴れがましい表情は、見ている方の気持ちも晴れやかにしてくれます。
 
先日、転送前の医師にえらそうに言ったQOL。「人それぞれ」と後で思い直し反省しました。思い込みの激しい性格のなせる技。それにしてもその間に世間では次々といろんなことが起きてます。「耳掻き店員殺人事件の裁判員裁判。尖閣列島事件のビデオ流出。個人的にはどちらも「?」がつきますがこれも人それぞれ。そして私の考えは多数派ではないのかもしれません。どちらかというと「2人殺しても反省すれば死刑にはならないのか」という遺族の方の心情に近いと思います。被告の側に立って考えても無期懲役で6~7年服役して出所してからどう生きるのだろう。何も残ってないと思うのは私だけ?それでも生きてるほうがいいのかな?尖閣ビデオ。もともといずれどこかで見ることが出来るとは思ってましたが思ったより早かった。犯人は多分海保の関係者だと思いますがそれを検察が捜査すると言います。言ってみれば「身内」。那覇地検の検察官の苦渋に満ちた表情での犯人釈放会見が頭に浮かびました。形式上の捜査で終わると思います。そしてこれも最近耳にする「国益のため」と言う言葉。便利な言葉だと思います。でも国益ってなに?経済的に一番のお得意先を失わないことが国益なのでしょうか?人にQOLがあるのなら国にもある。この国の国民ははそんな目先の損得で動くのかな?先人が建てた古家に住んでいるとします。雨が降るとバケツや洗面器で雨漏りを防ぎます。晴れたらそれでいい。でもいつかは屋根の葺き替えをしないと雨が降るたびそんなことを繰り返していたらいずれ屋根が腐って落ちてきます。「そのときその場だけやり過ごしたらいい」この国の指導者達の考え方にに不安を覚えます。

 今日、手術担当の医師から説明を受けました。 MRIで精査した結果動脈瑠ではなく腫瘍と断定。緊急性がないので骨折を優先。それより長く放置することによる血栓を案じるとの事。後、器具を装着することによることによる感染症の心配。骨の強度等。全ては切開してからの話。時間は3~4時間。麻酔が切れるのはそれから3時間。本来、完全看護で付き添いは必要ないそうですが認知症を持っているので特別に付き添い許可。身内でローテーション組みます。10日手術。長い一日になりそうです。
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  かかりつけの病院.という言い方が相応しいのかどうかわかりませんが認知症発症以前から行っている病院に搬送されたものの「ウチでは出来ないから・・・」と紹介されたのが某労災病院。「明日の午前中にご家族の方が持っていってください」とカルテと写真を渡されました。(このあたりがどうもおかしい。30年も前ならともかく今時電話もファクスもネットもあるのに何故そんなことに時間を費やすのか?)逆らうのもどうかというので弟が仕事休んで某労災病院まで「使者」よろしく行ったそうです。診察中とかで随分待合室でまたされ挙句写真をチラッと見て「動脈瑠を切除しないことには整形の手術はできません。」「どれぐらい時間がかかります?」「数ヵ月後から長引くと1年ぐらいです」「それまで骨折は?」「そのままです」「それで大丈夫なんですか?」「そのときは手術しても多分動けなくなってます」元の病院に帰って今度は私も一緒に主治医と話しました。「どうされます?」と聞かれました。「ご存知と思いますがクォリティオブライフ。今、血管外科手術をして何年か命を永らえても寝たきりになるのは必至。認知症も進むでしょうし、褥瘡いっぱい作って朝か晩かわからないような暮らしを続けてそれが幸せな生き方といえるでしょうか?術中に患者が死亡すると原因のいかんに関わらず困るのは分かりますが可能性があるのなら先ず骨折を直してやってください」「それは出来ません。先ず血管外科。予後を診断してから骨折」教科書どおりの返事。最終的に選択肢として残しておかないといけないので断る事はせず「移転先の病院への返事の期限までに結論を出します」「遅くとも月曜日午前中に返事ください」どこか受け入れてくれるところはないかと思案していたら妹の元上司で訪問医療をしている人。わらにもすがる思いで電話してみると「分かった。私の元部下で心臓血管外科のエキスパートがいるから連絡してあげる」その日のうちに受け入れOKが出ました。介護タクシー呼んで搬送。血管外科と整形の医師が連携を取って来週水曜日に骨折の手術をすることに決定しました。妹が血管外科部長という人に聞いたそうです「動脈瑠は大丈夫でしょうか?」「ん?あれか?あれは腫瘍。私は専門医。プロです。経験の浅い医師が動脈瑠と勘違いしたのでしょう。大丈夫ですよ」来週の手術が済むまでなんとも言えませんがどんな結果になろうとこの人に任せようと思います。というよりそれしかない。
  おふくろの骨折。救急車で隣町の救急病院まで搬送されました。昨日、どんなところか?どんな医者か気になるので仕事ほっぽりだして行きました。整形外科の担当医は副院長。外科がメインの病院と推測します。昼過ぎ担当医からの説明を受けます。モニター見ながら説明。なるほど折れてます。次に実際に使う器具を見せて説明。なかなか丁寧な対応と感心しました。話の中で現在かかってる病院。そして病歴を聞かれ説明しました。おふくろ、腹部に動脈瑠を持ってます。それを話すとかかっている病院と担当医の名前を聞きます。そして即電話。たまたま不在だったようで話は出来なかったのですが翌日「やはり元の病院で治療してもらいます。」ということになり、またかかりつけの病院に搬送。(やっぱり動脈瑠がひっかかったのかな?)と思っていたら今日。付き添ってくれている妹から電話。心臓血管外科の充実した病院に移って欲しいと言われたそうです。いいほうに解釈すると自信のない手術を無理にしない。悪く解釈すると「たらいまわし」。明日次の病院で判断してもらう事になりました。腹部動脈瑠。たまたま骨折という「事件」があったから表面化したのですがかれこれ10年以上前からその存在は気がついていました。ただ、それほど発展する気配がないということで放置されていたのですがこれが今、ネックになっています。リスキーですが並行して手術ということになるか?あるいはそこでも手がつけられないとリスクをさけ現状維持ということになるか?全ては医師の判断。駄目なら次を探します。
   母が庭で何かにつまずいて倒れたと妹から連絡が入りました。救急車を呼んで病院に搬送.。されたようですが大腿骨頚部骨折の疑いがあるようです。「骨折」「手術」「入院」「寝たきり」という言葉がぐるぐると頭をよぎります。一つの「節目」にならなければいいのですが・・・
   土曜日。スポットで通院介助の仕事が入りました。登録ヘルパーの嫌がる仕事です。丁度遅れていた自販機の切り替えもなんとか片付きそうだったので午前中の一時間で済むのならと引き受けました。ひじの関節が痛いという利用者さん。他の医院への通院は何度か介助したことがありますが今回は総合病院。初診です。この手の仕事は病院の玄関まで送り届けるのが基本で院内は介護保険外になります。とはいうものの足腰が不自由で車椅子。そして腕が動かせない。病院の中まで入り受付。採血。そしてレントゲン。診察。放って帰るわけにもいかず幸いそれほど混雑もしてなかったので順について回ります。一通りこなして後は診察を待つのみということで「それじゃ。終わった頃見計らってまた来ます。」と帰ろうとすると「オジンさん。もうちょっといてくれへん?時間オーバーした分上乗せしてくれたらいいから」これが困る。出来ないことも無いけどそれをやってしまうと悪しき前例を作ることになります。頼りにされるのは分かるのですが本来誰がやっても同じサービスでないといけない仕事。「一応事業所に電話して聞いて見ます。」電話するとサービス内容は調整するから可能なら付いていてあげてくださいという。どうせ帰ってもすぐまた出てくることになるからと院内にいることになりました。診察の順番を示す表示板を見ながら利用者さんに寄り添います。順番が来て受診ということになっても「一緒に入ってセンセの言うこと聞いて欲しい」と言われます。服用している薬を聞かれるのですがご本人。いたって頭脳明晰、記憶力のいいかたなのですが全て「忘れた」仕方なく私が覚えてる限りの事を答えます。三角巾で腕をつるして帰り道。「オジンさん。ありがとうな。助かったわ。僕一人では病院で診察も受けられんようになった。ほんまに今日は有難う」そう話す声が涙声。去年何度か入っていた頃はいたって威勢がよくこんなに弱気な人ではなかった。歳を取るということは肉体的に老いるだけではなく全てに自信をなくすことでもあるということを思い知らされました。
  鳴り物入りというか国家の威信をかけたイベント。上海万博があさって31日で終わります。工事の遅れ。模倣疑惑。マナーの悪さ。この間に起きたさまざまな事象への対応。(尖閣。レアアース。ノーベル平和賞)入場者数が思ったほど伸びず、例によって当局が大規模な動員で当初の目標である「史上最大の万博」7000万人を終了間際になってやっとクリアーしたそうです。ちなみにそれまでの 最多入場数は70年の大阪万博。意地でもこの数字はクリアーしたかったのでしょう。なにせ白髪三千丈。日本の10倍以上の人口。4千年の歴史を誇る国家ですから。さてこんなバッタモンみたいな状況をいつまで維持できるか?
  話は変わりますが31日といえばハロウイン。(こちらの話題のほうが楽しい)日本におきましてPhoto も大きなカボチャをくりぬいて作った魔除けの飾り物「ジャック・オー・ランタン」のオレンジ色がこの時期の街の色としてすっかり定着した感があります。私などは西洋版の「お盆」と解釈してますがアメリカでは大人も子供も一緒になって盛り上がるといいますから寂れつつある日本のお盆と比較すると叱られるかもしれません。事実、新学期商戦(アメリカでは8月)やクリスマス商戦と並んでハロウインも商売の大きな原動力になるようです。

 歩いていて道が左右に分かれてます。目的地に行くにはどちらが正しいのか?間違った道を進むと目的地に着けないかも?さて、右か左か?どうします?結局どちらへも行けず立ち往生。勘の鋭い人。自分を客観視できる人ならお分かりだと思います。右も左も選べずに焦げついている心模様を放り出して離れて対岸の火事のように眺めていられるようになれば到着なのです。右でも左でも同じ。というより目的地は目の前の道の先にないのです。遡って考えて見ましょう。今、分岐点にいる。その前はこの分岐店が目標だったはず。そこに着いたら目標達成。先に行こうと思ったらまた目標を立てればいい。その為に右にいこうが左に行こうが多少の差はあれ、どちらでも行きたいところにいけます。もっと砕いて言うとそこに行き着くまでが問題なのです。険しい道のりになるか平坦な道になるか?どちらがいい?平坦なほうが楽で早く着く。だったらそのほうがいいのでしょうか?ゲームならそうでしょう。でもそれがあなたの人生なら?楽して早く着くのがいいですか?それがあなたがこの世に生まれてきた目的ですか?
苦労してきた親ほど子供には楽をして欲しいと願います。それが軟弱でひ弱な子供を作ります。そんな子供が成人して生まれた子は生まれた時から苦労する。あんなふうには(親のように)なりたくないと苦労して自分を磨く。このサイクルは大昔からずっと続いてます。
ただ、時として親の財産があまりに大きすぎると三代まで苦労知らずで生きていける人もいるようです。

 また気が変わるかもしれませんが鳩山前総理が「総理を辞めたら議員も辞職する」と言っていたのを撤回し、「議会がまだ私を必要としている」と議員職を続行するそうです。政治家も三代続くと社会人としての苦労をせずに成人してしまい恥の感覚や概念がなくなるのかもしれません。

カルテットサンフランシスコ「タンゴトスカーナ」