舟木一夫と和泉雅子㊦
1月15日は正月を終えて一息つくという意味で「小正月(こしょうがつ)」と言われ、この日朝に小豆粥(あずきがゆ)を食べると健康でいられるという言い伝えがあります。「土佐日記」や「枕草子」にも小正月に小豆粥を食べることが記されています。
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和泉雅子さんの話を続けます。
私の名コンビと言ったら、日活映画では高橋(英樹)君。テレビに行ってからは関口(宏)君なんです。高橋君とは入社も同じで、とにかく作品の本数が多い。一番気が合いました。のちに日活の方針でケンちゃん(山内賢)とコンビを組むことになるんです。同じ会社でのコンビは味噌汁とご飯という感じなんですけど、舟木(一夫)君の場合はハンバーグかステーキを食べているという感じだったんです。特別なコンビで新鮮だったんです。ケンちゃんとコンビを組んだことで、私とケンちゃんと舟木君とでトリオみたいになっていくんです。
<舟木さんがケンちやんに初めて会ったのは、和泉雅子さんではなく松原智恵子
さんと初めて共演した「学園広場」の撮影現場でした。以降、「あゝ青春の胸の
血は」「花咲く乙女たち」「北国の街」「友を送る歌」までがケンちゃん、和泉
さんとのトリオ。この間に、舟木さんは1歳年上のケンちゃんと兄弟以上に親しい
関係になります。舟木さんはのちに「撮影所のルールは、全てケンちゃんに教わ
った」とまで言っています>
<そんな親友のケンちゃんでしたが、2003年夏に右肺にがんが見つかり除去手術
を行い、転移が確認されてから計4回の手術を行いました。しかし、2011年9月2
2日に急な発熱で東京都新宿区内の病院に入院、2日後の24日午前4時53分に肺炎
のため亡くなりました。まだ67歳の若さでした。和泉さんは「亡くなった時は、
一番に舟木君に電話したんです。通夜に来てくれたんだけど、もう真っ青な顔に
なっていて、あんな舟木君を見たのは初めてだったんです。相当にショックだっ
たのね。それで『早く帰りなさい』って帰したのよ」と話しています>
和泉さんの話が続きます。
舟木君と浅草国際劇場で共演したことがあるの。当時の舟木君って映画の撮影でも皆の前で着替えが出来ない。車を待たせて付き人と近くの後援会の方の家まで行って着替えていた。私たち映画人はロケバスの中で着替えるのが当たり前だったから、、とても不思議だった。それで国際劇場のショーの時に、舟木君が白とブルーのブレザーに白のズボン、私が白のプリーツスカートという衣装で「銀座すずらん通り」か何かを歌うの。通し稽古の早変わりの時、SKD歌劇団の劇場だから大きな風呂屋の鏡みたいなのがあるだけで、ソデに着替える場所がない。衝立もない。
私はパーと脱いで下着だけになっているのに、舟木君は着替えられないの。「何やってんの、早くしなさいよ」と言ったら、パーッと舞台のソデに行っちゃった。次に着替える時には、ちゃんと衝立が出来てたのよ。どうやら舟木君と私は、舟木君がお釈迦様の掌で、私が孫悟空なんだろうね。私が好き勝手に動くのを受け取ってくれる舟木君だから、うまく行ったのね。
<この話は1966年5月3日から9日まで、浅草国際で開かれた「舟木一夫ショー」
での話だと思われます>
浅草国際劇場 Wikipediaより
<舟木さんが主演した日活映画は「絶唱」の後、「北国の旅情」(共演は十朱幸代
さん)、「夕笛」(松原智恵子さん)、「残雪」(松原智恵子さん)、「青春の鐘」(松
原智恵子さん)の4作がありますが、和泉さんとの共演はありません。しかし、和
泉さんは最近も舟木さんのコンサート会場には足しげく通い、必ずと言っていい
くらい公演前の楽屋で舟木さんと談笑しています。まぁ、舟木さんの芸能界の仲
間でこんなに長く付き合っている人は他にいませんね(笑)>
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