舟木一夫
浅草公会堂公演2026の選曲⑲
「北国の街」
本題に入る前に―。舟木一夫さんは「永遠の青春スター」の代名詞で呼ばれます。80歳を過ぎて年間50数公演をほぼ満員状態でこなしている歌手は他にいません。歌っている歌はいわゆる“青春歌謡”が多い―となると、この代名詞は決して大げさではないことが分かります。そこで、舟木さんの持ち歌(シングル)でタイトルに「青春」が付く曲を調べテミマシタ。8曲ありました。意外に少ない? こんなもの? アルバムに収められている曲の中にも「青春」が付くものがあるかもしれません。
■「あゝ青春の胸の血は」(作詞・西沢爽、作
曲・遠藤実)
■「青春はぼくらのもの」(作詞・丘灯至夫、
作曲・遠藤実)
※「君たちがいて僕がいた」のB面
■「青春の大阪」(作詞・西沢爽、作曲・和田
香苗)
■「青春の鐘」(作詞・丘灯至夫、作曲・古関
裕而)

■「青春」(作詞・丘灯至夫、作曲・遠藤実)
※「流浪」のB面
■「青春ばなし」(作詞&作曲・上田成幸)
※「つばさ」のB面
■「いつでも青春」(作詞・川内康範、作曲・
遠藤実)
※「想春」のB面
■「眠らない青春」(作詞・舟木一夫、作曲・
川崎浩史)
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本題に入ります―。舟木一夫さんが6月10日(水)から12日(金)まで、東京都台東区の浅草公会堂で行ったコンサートで選んだ曲を紹介しています。行かれた舟友さんには振り返っていただき、行けなかった舟友さんには雰囲気を感じていただければ幸いです。舟木さんが19曲目に選んだのは1965年3月にリリースされた「北国の街」(作詞・丘灯至夫、作曲・山路進一)でした。B面も丘&山路コンビによる「はやぶさの歌」ですが、舟木ファンには絶大な人気のある作品です。

舟木さんと言えば遠藤実さんですが、遠藤さんは1965年3月に日本コロムビアとの契約を解き、太平住宅創業者の中山幸市さんが設立した太平音響㈱の専務取締役に就任。中山さんが亡くなると2代目社長になり、社名をミノルフォンに改名しました。1970年5月に社長を辞任しますが、この間に舟木さんの遠藤実作曲の曲は徐々に減って行き、山路進一さんや船村徹さんらの作曲による歌が増えていきました。ちなみに、ミノルフォンは遠藤さんが退いた後、徳間書店に買収され、徳間音楽工業と改称されました。
「北国の街」は山路さんの最高傑作の一つだと思います。舟木さんに言わせれば、「ドラムを入れずにウクレレだけでリズムを刻んでいる新鮮な曲」。クラリネットがあの北村英治さんという贅沢な曲でもありましたが、バンドリーダーのチャーリー脇野さんがジャズギタリストだった関係で、舟木さんのワンマンショーではジョージ川口さん(ドラム)、小野満さん(ベース)らとのビック共演も実現しました。「北国の街」がリリースされた3月から同名の日活映画の撮影が始まっています。
ジャズ・クラリネットの北村英治さん。現在97歳
舟木さんは前作の「花咲く乙女たち」(監督・柳瀬観、共演・西尾三枝子、山内賢ら)から映画に本格的に取り組むようになり、「北国の街」(監督・柳瀬観、共演・和泉雅子、山内賢ら)は舟木さんにとって本当の意味での初主演映画です。「映画の主役として舟木一夫がもつかどうかという勝負がかかっていた」と舟木さん自身が話しています。18日間のロケのために、テレビ、ステージなど数十本の仕事を全て断って出演しました。映画の舞台は長野県と新潟県の県境でした。この映画での舟木さんについて柳瀬監督が語っている音声が残っていますので、ご紹介します。

柳瀬さんは日活プロデューサーの笹井英男さんから「仲間たち」を撮ってほしいと頼まれたのがきっかけで舟木さんと出会います。3作目の「北国の街」では決まった予算で、自然と向き合う形で、舟木ファンに満足して帰ってもらえるように、封切りまでに間に合わせるという“使命”がありました。柳瀬さんは駆け出しだった倉本聰さんの最初の脚本を読んだ時、これでは舟木ファンが納得してくれないと思いました。倉本さんは丘さんの歌詞の雰囲気にも合わせて脚本を書いたものと思われますが、駆け出しということで柳瀬監督の話に納得されたんでしょうね。
柳瀬さんはロケ現場で自分で“台詞”を紙に書いて出演者に渡しました。「舟木君は感が良くて5、6秒で頭に入れてくれたので、これはツーカーで行けると思いました」と話しています。打てば響く舟木さんに励まされたとも語っています。和泉さんは「日活も歌謡映画を本格的に始めた頃で、舟木君も『北国の街』をきっかけに、ちゃんと映画をやりたいと考えるようになったんだと思います」と話しています。「舟木&和泉雅子&山内賢のトリオが確立した映画でもありました。公開後にトラックいっぱいのファンレターが届き、その中には「是非続編を撮ってほしい」というものも含まれていたということです。


以前にもお話ししましたが、国鉄飯山線の最終列車が飯山駅に入って来て、和泉さんが舟木さんを見送るシーンがあります。本番で汽車がホームに入ってきた途端に和泉さんから台詞が飛びました。和泉さんはタイミングと間合いを覚えていたため、咄嗟に舟木さんに「台詞を忘れたの。だけど驚いた顔をしないで、私が“はい、どうぞ”と言うから、舟木君は私の合図に従って台本通りにしゃべって」と伝えました。舟木さんは顔色一つ変えないで台詞をしゃべっていましたが、次の駅で降りて自動車で戻って来て「マコちゃん、ひどいよぉ」と怒った、怒った!!
和泉さんが後で譜面台のような台に台本を置いてアフレコをしたら、ぴったり収まったと言います。和泉さんは「咄嗟の機転というか、咄嗟のことには強いんです。あの時は自分のことを天才だと思いました」と話していました。らしいと言えばらしいんでしょうか…。舟木さんについて、「歌手は音程がいいから台詞が上手なんですが、舟木君は歌手の中でも断トツでした。脚本の台詞をこうした方がいいんじゃないのって大学ノートに書き込んでいましたから。そんなことをやっていたのは(吉永)小百合ちゃんと舟木君だけでしたよ」と話してくれました。

ところで、舟木さんはコロムビアのオーディションを受けた際、松島アキラさんの「湖愁」、山田真二さんの「哀愁の街に霧が降る」、平野こうじさんの「白い花のブルース」を歌いました。この3曲はいずれもビクターの歌手の歌でした。その時にピアノを弾いていた審査員の一人が、後に舟木さんの「北国の街」などを作曲する山路進一さんでした。山路さんは「コロムビアのオーディションなんだから、1曲ぐらいはコロムビアの歌手の曲を歌うもんだけど……君、面白いね」と言いました。
そんなこともあって、舟木さんは山路さんが好きになりました。山路さんが2000年10月22日に脳梗塞のため68歳で亡くなった翌年の3月3日に開いた「ふれんどコンサート」では山路さんの特集を組みました。その際、舟木さんは「遠藤(実)先生や船村(徹)先生はよくご存知だと思いますが、山路先生ってどんな人? と思っていらっしゃるんじゃないでしょうか。取材やテレビが嫌いな人だったんですね。目がギョロギョロとしてて、地黒で漫画の“のらくろ”を人間の顔にすると、そのまま山路さんだった」と分かりやすく(?)話していました。
<山路進一作曲の舟木一夫作品>

■「叱られたんだね/初恋の駅」
(1964年1月。作詞・関沢新一)
■「まだみぬ君を恋うる歌/ひとりになると」
(同年6月。作詞・丘灯至夫)
■「織姫音頭」(同月。作詞・城ゆたか)
※「しあわせの星二つ」のB面

■「少女」(同年7月。作詞・石本美由起)
※「アロハ・オエ」のB面)
■「北国の街/はやぶさの歌」
(1965年3月。 作詞・丘灯至夫)
■「竹千代音頭/竹千代の唄」
(同月。作詞・中林きみを)

■「東京は恋する/虹の向こうに」
(同年4月。作詞・丘灯至夫)
■「たそがれの人/夜霧のラブレター」
(同年8月。作詞・安部幸子)
■「浜の若い衆/磯浜育ち」
(同。作詞・安部幸子)
■「やなぎ小唄」
(同年12月。作詞・関沢一)
※「東京百年」のB面
■「山のかなたに」
(1966年1月。作詞・丘灯至夫)
■「今日かぎりのワルツ/ひぐれ山唄」)
(同年5月。作詞・高杉敏)
■「雨の中に消えて」
(同年8月。作詞・丘灯至夫)
■「おやすみ恋人よ」
(同年11月。作詞・丘灯至夫)
※「ジングル・ベル」のB面
■「一心太助江戸っ子祭り/淋しかないさ」
(1967年1月。作詞・関沢新一)
■「幸せよ急げ」
(1968年3月。作詞・関沢新一)
※「残雪」のB面
■「ふたりだけの街角」
(同年9月。作詞・高峰雄作)
※「銀色の恋」のB面
■「恋のお江戸の歌げんか」
(1969年7月。作詞・西沢爽)
※「ああ!!桜田門」のB面
■「いつか来るさよなら」
(同年12月。作詞・井上忠夫)
※「北国にひとり」のB面

■「恋人形」
(2014年6月。作詞・舟木一夫)
※「眠らない青春」のB面
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