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正直、スマンカッタ!

フリーランスライターSATOの仕事&プラペの記録。

前回とは趣を変えて、写真を軸に福島市への旅を記してみる。

まず、交通手段は新幹線を選んだ。
家族4人だと価格的にキツイが、
JTBの旅行券のおかげで贅沢ができた。
福島駅までは東京駅から約1時間40分。
新幹線だと、案外近いのである。

$正直、スマンカッタ!-新幹線


東京駅のホームには、ちょうど、はやぶさ(not帰還して燃え尽きた奴)がいた。
残念ながら、この緑のは福島県内には止まらない。
大宮から一気に仙台に行っちゃうんだよね。
福島県民は抗議していいレベルだと思う。
一部列車では郡山発ではやぶさ列車が用いられているようだが、どうなんだっけな。

で、子どもがせがむので、何故がつばさ(山形行き)の車両に乗る。
$正直、スマンカッタ!

つばさは福島駅でやまびこと切り離して、山形方面に向かうのが通常。
福島県がなければ山形県は存在しないのも一緒。
山形は「芋煮の元祖」とか名乗っていると、福島駅を封鎖するぞ、ゴルァ。

で、無事に福島駅に到着。
国境(おい)を超えて山形に向かうつばさを見送った後、
新幹線改札を出て、出口に進む。
すると在来線を繋ぐ陸橋内の広場で、
地元の青年会議所(だったと思う)の人たちが
観光客向けにゲーム大会を開いていた。

$正直、スマンカッタ!-売店


おまけしてもらって、おもちゃを色々と貰う。
かなりのおまけっぷり。
じゃんけんで言えば、グーしか出せないドラえもんを相手にしているようなもの。

そう言えば、我が会津若松でも、
駅構内で日本酒の試飲を行ったり、
白虎隊の扮装した人やあかべぇ(ゆるキャラ)が登場して、観光客を歓迎していた。

訪れる街との最初の接点たる駅で歓迎されれば、
その後の旅も気持ちよく続けられるというものだ。
福島県全体で頑張って盛り上げようとしてるんだな。
欲を言えば、おっさんに迎えられるのではなく、
何か気の利いたキャラや女子がいた方がよかったけど。

福島駅に着いたのは12時半くらいだったろうか。
駅前で食事と思ったが、どうせなら名物を食いたい。
福島名物と言えば、円盤餃子である。
リンク先の画像を見てもらえばわかるが、
円盤状に並べて焼いたボリューム満点の餃子が福島市を代表するB級グルメとなっている。
俺が福島にいた時代は、知らなかったな、これ。昔からあったのか、最近無理矢理作ったのかわからんが、見た目がうまそうなので、食いに行くことにする。

目指す店は満腹
円盤餃子の老舗中の老舗である。
駅から徒歩20分程度。
迷ったけど、歩いていこう。

福島市の夏は暑い。
2012年は日本一の暑さを記録した日もあっただろうか。
訪れた日も駅前の温度計は36度を指していた。
路面は陽炎が立っている。
日差しは刺すような痛さだ。
東京に比べればカラッとしている気もしたが、
36度もあれば湿度も糞も関係なく暑いモノは暑い。

そんな中を4人家族の2日分の重い荷物を持ち、
ベビーカーを引いて市内を練り歩く。
当然、体中から大汗が噴き出る。
辛かった。苦しかった。
空腹も手伝って頭がくらくらしてきたが、
「満腹に着いたらビール飲みながら腹いっぱい餃子食うんだ」という気持ちで頑張った。
しかし、なんだかフラグみたいなのを立てたのがいけなかった。

$正直、スマンカッタ!-満腹


餃子切れで、ランチ営業閉店していました(涙
(※通常は夜のみ営業だけど、休日はランチもあり)。
む、無念。
店内を除くと、まだ最後の餃子をパクパク食っている人がいる。
俺にもくれ、などと叫べるわけもなく、
とぼとぼと駅に向かって帰ることにした。
またかよ、

円盤餃子の店は駅から遠いところが多いので、
車のない俺達は諦めるしかなかった。
飯坂温泉にも名店が1軒あるけど、そこまでお腹が持ちそうもない。

落胆しながら駅までの灼熱の道を歩く。
嘆いていても仕方ないので、風景を改めて見渡してみる。

駅に続く道には大きな商店街はないが、
小さな個人店があったり、
石畳の綺麗な道が続いていたりして、
意外と町は整っている(失礼)。
生意気にも日本銀行もあるではないか(超失礼)

ただ、都会オーラ全開の郡山とは違う。
田舎ののんびりとした、こぢんまりとした街という印象である。
優しげで心地よい。
会津若松とは違うけど誓い印象はあるか。
さすが福島藩があっただけはある。

福島市には10年ぶりぐらいに訪れたのだが、
駅前を歩いたのは初めてのこと。
改めて福島には色々な街があると実感した。

人ごみはないが、まばらながらも、それなりに人の動きもあった。
夏休み中だけに子ども連れの姿を結構な数見かけた。
小学生や中学生ばかりではない。
ベビーカーとも何度すれ違ったことか。

福島市の子どもたちは、普通に生きている。
その前月にGCMで郡山に行ったときも、
子どもたちが普通に外で活動をしていた。
誰だ。部屋の中に閉じこもりっぱなしって言ってたの。
ま、もちろんそういう人もいるだろうけど、
人数としてはどちらが多いのかということだよね。

さて、暑さと空腹で、意識朦朧としながら駅に辿り着くと、
駅ビルのソバ屋でそばをかっ込み、
そのまま飯坂温泉に向かうことにした。
早めに宿に入って湯を楽しもう。
地獄のように熱いという飯坂の湯を満喫しよう。

福島交通飯坂線に乗車して飯坂温泉駅へGO。
$正直、スマンカッタ!-飯坂線


続きは次回へ。

《築地市場》年始のご挨拶・贈り物グルメ
超古新聞だが、昨夏、福島県の飯坂温泉を旅した際の出来事を書く。

お盆明けの8月後半、家族(含子供2名)で温泉に行こうということになった。
計画性がない家族なので、こういう旅行の時はたいていは前日予約になってしまう。
当然、いい場所のいい旅館には泊まれなかったりする事が多いのだが、
俺の商売上、突然、スケジュールが埋まったり、
パッと空いたりする事が多いから、いかんともしがたいところではある。

さて、今回はどこに前日予約をしようか。
いつも通り箱根か、それとも思い切って房総(どういう意味だ)にするか。
そういえばJTBの旅行券が約2万円分あった。
色々調べると、旅行券が使えるツアーとか宿だと
前日予約は対応してくれなさそうだから、交通費に充てよう。
JTBの窓口ではJRの切符を購入できる。
確か払い戻しができなかったはずだが、まぁ、いいか。

種銭があるとなると、多少、遠い場所でもいいだろう。
那須塩原界隈のガツーンとくる硫黄の湯が好きなのでそっち方面も考えたが、
駅からの距離があるので、車の旅じゃないとちょい面倒である。
ならば、もう少し北に向かおう。
そうだ、福島だ。
震災後のなんやかんやにアレしてる福島を支援するという意味も込めて。

俺の実家は会津若松だが、福島は広い。
中通りやいわきには、行ったことがない場所がたくさんある。
会津地方以外で探してみよう。
で、コンビニで買ってきたじゃらんを何気なくめくっていると、
ふと福島市は飯坂温泉にある「ホテル聚楽」の名が飛び込んでくる。

聚楽と言えば「じゅらくよ~ん」である。
https://www.youtube.com/watch?v=hxNFbNrijQg
マリリンモンローのそっくりさんを起用したお色気CMは、
特定世代にはあまりにも有名ではなかろうか。

CMの雰囲気からわかるとおり、
かつてはおっさんの欲望を満たす方面のホテルだった。
多分、あんなパフパフやこんなパフパフも行われていたのだろうが、
社員旅行や接待旅行なんていやよん世代がはびこるこのご時世、
聚楽もアントニオ猪木のPKO(by新間)では立ち行かなくなったのだろう。

今ではシェフが目の前で調理するバイキングや子供向けのイベントを用意するなどして、
一家そろって楽しめる宿として展開するようになっている。

名物のかみなり風呂(15分に一回雷が鳴り響く謎演出)も健在。




温泉旅館ならではのゲームコーナーもある。
これなら飽きっぽいウチの子供も楽しめそうだ。
料金プランも一人1万円台前半と良心的。
これなら零細な俺でもなんとか宿泊できるだろうと、
何故かわからんがじゃらんを使わず、
ホテル聚楽@飯坂HPhttp://www.hotel-juraku.co.jp/iizaka/でポチっとする。
宣伝したのでなんかください。

前日予約でも問題なかった。部屋は空いていた。
実は、個人的には「大丈夫だろう」とタカをくくっていた。
それはある意味では「下に見ている」、
引いては「馬鹿にしている」と言われても、
俺には反論できる言葉がない。

原発事故後の影響で福島市の放射線量は、
決して低くはない数字を弾き出すようになった。
飯坂温泉も例に漏れず。
平成23年6月と平成24年3月の比較ではこんな感じである。
http://www.city.fukushima.fukushima.jp/uploaded/attachment/10855.pdf

自分自身はこれくらいの線量でどうなるというわけでもないと思っている。
ましてや、旅人である俺達に何が起こるというのか。
ほんの少しだけ滞在するに過ぎないのに。
そもそも、ラジウム卵の誕生の地たる飯坂温泉で何を言うかということになる。
放射線がバリバリに発生するラドン温泉にたっぷり浸けた赤い卵は
昔から飯坂温泉の名物として誉れ高い。

でも、避ける人も多いだろう。
いわゆる風評被害って奴だ。
きっと、飯坂温泉を訪れる者も少なくなっている。
宿も困っているはずだ。
だからこそ、家族連れで訪問しようという我が家族は
相当なインパクトとなるのではないか――

そんな傲慢さを無意識のうちに抱いていた気がする、無意識のうちに。

結論から言ってしまえば、実際、街全体に人は少なかった。
それは震災の影響でもあるが、震災前からの問題でもある。
地方の小さな温泉街はこの十数年、不況の影響を受けて苦戦し続けている。

ただ、ホテル聚楽に限って言えば、
そんな状況下でもほぼ満室だった。
館内は驚くほど多くの子供達の元気な声で満ちていた。
俺達が前日予約できたのは単なる偶然に過ぎなかったのである。

ホテルの賑わいを見て、とてもうれしい気分に包まれた。
しかし、いま振り返ると、賑わいを“意外”に思う自分もいた。
小さな心の動きではあった。
しかし、そのほころびがきっかけとなって、
人の感情はねじ曲がっていくのである。

震災後、今現在もなお、俺は色々な「善意」に接してきた。
けれども「善意」ってなんなんだろうな。
俺の下に見ていた目線が、善意と融合した時、
それはとてつもなく危険な凶器にになるのではないか。

飯坂温泉の旅行記、本当は昨夏に書こうと思っていたけど面倒で放置していた。
が、考えるところがたくさんあったので、
改めて記してみる。
何回かに分けて書いていくつもりです。
乱文、失礼しました。
Tumblerに投稿したものをこっちにコピペ
やり方よくわからんのだもん(涙
改めて、田村潔司vsヘンゾ・グレイシーの入場シーン。


http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=mTmoGlWKj7A


もう何度、見たことか。
2000年のリングスKOKトーナメント準々決勝の一戦である。
当時、最強の名をほしいままにしていたグレイシー一族と、リングスのエース田村が対峙することになった。田村が日本のプロレスラーの強さを証明するのか。それともグレイシーに飲み込まれてしまうのか。観客は期待と不安に胸を膨らませながら、入場ゲートから登場するであろう戦士に熱い視線を浴びせていた。
その刹那、誰もが想像だにしなかったイントロが館内に鳴り響く。田村は入場曲に「UWFのテーマ」を選択したのである。普段はまったく別の曲を使っているのに、だ。観客たちは瞬時に理解した。これは俺たちの青春をかけた決闘なのだと。

『UWFのテーマ』は新日本プロレス出身者を中心に結成された格闘技団体(あえてこう書く)UWF(第二次)のテーマソングである。試合開始前に流れるこのアップテンポで勇壮な曲に心を高鳴らせた後、観客たちはUの戦士たちの静かながらも闘志にあふれるバトルを食い入るように見つめていた。

格闘技ブームの原型を作ったのは、間違いなくUWFだ。試合の進行はキックと関節技が主体で、決着はKOかギブアップのみ。既存のプロレスのグレーな部分を排除して、戦いだけを純化させたそのスタイルは、「八百長」のレッテルを貼られて辛酸をなめさせられていたプロレスオタクたちの光となった。

実際はUにもグレーな部分が多々あったのだけれども。

その“わかりやすい”格闘技性はプロレスファンの心の支えとなった。俺達の望んだ戦いがそこにある。ロープに飛ぶようなプロレスラーを支持しているのではない。俺達は真の戦いに熱狂している。格闘技の求道者たちを支持している。新日だの全日だのという“あいつら”とは違うんだ。そんな選民思想がイデオロギーを生み出し、Uのファンは先鋭化していく。前田日明が旗揚げの挨拶で述べた「選ばれし者の 恍惚と不安、二つ我にあり」の言葉などは、Uを特別なものに深化させる推進力となったのは間違いない。

俺は純粋なプロレスの方が好きだったが、Uを支持する気持ちはよくわかる。プロレスなんてという面倒臭いあれこれを一蹴できる(できた)し、何よりも自分の中にあったプロレスに対する疑惑や否定の感情をリアルファイトという一言がかき消してくれる。俺たちの黒い歴史を肯定してくれるUが、爆発的な人気を得ていったのは当然のことだった。実際、月に1回ペースの試合はものの数分で売り切れ、チケットはプラチナ化していた。


だが絶頂期は長く続かなかった。88年に旗揚げした第二次UWFは、内紛を経て91年にはリングス、藤原組、UWFインターの3派に分裂してしまう。各団体も人気を博したものの、同時期にK1が産声を上げ、総合格闘技団体であるUFCやPRIDEが出現すると、強さを決める場としてのU系各派の地位は次第に低下していく。(分裂後もいろいろあるが、あまりに長くなりすぎるので割愛)


とりわけグレイシー一族は脅威だった。ホイスがシャムロックを破り、ヒクソンが高田や船木を破る。Uはグレイシー一族に蹂躙されていた。Uの出身者の弱さが露呈した中で、Uオタの心はまさにボロボロだった。かつて自らが君臨していたその位置、格闘技界を席巻する玉座には、グレイシー一族という新たなイデオロギー集団が鎮座しているのを指をくわえて見ているしかなかった。

そこで田村である。

田村はUWFの流れを受け継ぐUインターを経て、同じくU系のリングスに移った、いわばUの申し子である。しかも、Uインターがギクシャクしていた中で、一人格闘技としてのUWFを守ってきた人間である。その後、PRIDEにも出場しているので、(おそらく)ほぼグレーな部分を排除してのバトルにも果敢に取り組んできた。

ちなみにヘンゾ・グレイシーと対峙したKOKトーナメントは、U系のルールではなく、総格ルールに準じている。リングスはロープエスケープ2回でダウン1回という計算で、5ダウンでTKO、顔面パンチ禁止でボディのみベアナックルでもOk(時代によって若干違うが) ところが、KOKではそれまでのルールを一切合財捨ててしまい、オープンフィンガーグローブを付けての顔面ありを採用する。80年代末期には一大ブームを築き上げたUも、その形を変化させなければ、時代に取り残されてしまうほど衰退していた、ともいえる。

信じていたUの伝説がグレイシーにこことごとく否定される。勝負論を掲げてきたUだけに、勝負で負けたファンの落胆は大きかった。強いグレイシーこそが本物だと叫びながら、弱いUを貶す。そんな声も聞こえてきたけれども、そう叫ぶ者さえも、かつてはUを愛してやまない熱狂的なファンでもあったのである。

変化しているリングスの中で、Uという概念も時代遅れとなっていた。もうUのことを思い返す人間はそれほど多くはなかったのではないか。当時はPRIDE全盛期だったので、なおさらUに対する“終わった”という感覚は強かった。

しかし、そうは言いながらも、心のどこかでファンたちはUを信じていた。戦いに臨む田村も、同様である。田村は怨敵を前に、Uの看板を背負って戦う決意をした。入場曲としてUの魂が凝縮されたUのテーマを選んだのは、それ以外の何物でない。飾りやアピールを嫌う(と思われる)田村が、こういう行動に出たのも、生々しいリアル感を伴う要因となった。爆発するような凄まじい歓声が日本武道館を包み込む。忘れそうになっていたUの思いが、この瞬間に甦る。他の総合格闘技によって衰退させられるであろうUが、田村の戦う時間だけ息を吹き返したのである。この決戦は田村とヘンゾという個人の戦いではない。Uとグレイシーというイデオロギーの戦争である。俺たちと共に歩んできたUが、とうとうグレイシーに復讐するのである。

試合は試合でも苦戦をしいられながら、田村は見事、勝利をしてみせる。完全決着が基本線のグレイシーに対して判定勝利という微妙な結末ではあったが、勝利という最高の結果によりファンのプライドは十二分に満たされた。けれども試合内容に関しては10年以上たった今も、入場シーンのように語り継がれてはいない。動画中に糸井重里氏が「終わったかのような興奮』というようなことを言っていたが、俺たちの信じてきたUが戻ってきた歓喜に勝るものはなかったのである。

あの後、ほどなくしてリングスは活動休止となる。U系の団体は以後、今日に至るまでスポットライトを浴びることはない。田村の入場はUの最後の花火だったのかもしれない。