前章の最後の”元の時代の哥窯”という定義が出ました。それを話す前にもう少し南宋哥窯の議論をします。
龍泉哥窯から、修内寺官窯の変遷の結果は、龍泉窯の伝統の上に新たに”南宋官窯”という新しい品種が生まれた。南宋官窯は一つ時代の標準として、以降の時代の”官窯青磁”の概念を樹立した。
では、兄貴の章生一は修内寺窯に移転した後に、龍泉の地に元窯はどうなったかの記載はないが、想定上は一時休業やまたは弟の章生二の管理下に入ったではないかと思われます。
前章の話では、磁貫入り青磁できた原因は杭州の水でしたが、龍泉窯の地には宋一代に基本的に磁貫入りの青磁はなかったけれども、稀に、南宋龍泉窯倣官窯という砕磁貫入りの発掘品があった。可能性としては、修内寺窯で樹立した審美観に影響を受けて作ったものだが、南宋時期ではさほど開花していなかった。民窯は官窯の模倣はできないというルールがあったから、実際龍泉窯の倣官窯ものができたのは南宋官窯終焉(郊壇下窯)後のことでした。これは直接”元哥窯”を催生した。
南宋初の官窯修内寺窯の存在は2~3年しかない。応急的な臨時官窯でした。南宋5年以降、国内形勢は主に安定したところで、南宋朝廷は正式に杭州に定都したから、制式上大規模な祭典が行うため、大量な祭器や宮廷用品が必要になります。
その際に、国家の祭典の場と指定された杭州郊外の鳳凰山に”壇場”を設置、利便性を取るために、鳳凰山の足元に大規模な官窯を作った。
その際に、国家の祭典の場と指定された杭州郊外の鳳凰山に”壇場”を設置、利便性を取るために、鳳凰山の足元に大規模な官窯を作った。
それは、文献上に”郊壇下官窯”と呼ばれる南宋官窯でした。”郊壇”は現在すでに地名になっている。郊壇下官窯の規模が大きいから、1956年に窯跡が発見され、大量の発掘品がある。発掘の発見より、郊壇下官窯の製品は修内寺官窯と比べると少し離れている。伝習上の”哥窯”の特徴は薄いです。
(台北故宮蔵郊壇下官窯唾壺 釉色は浅くなった)
例えば:黒土だけではなく、灰色土が多く、釉色も粉青色だけではなく、米黄などがあります。器の造形も祭器だけではなく、宮廷用品とされる実用的な造形ものが多い。
つまり、郊壇下官窯は祭器専用窯ではなく、名前通りの官窯です。製品が多く、存在時期も文献記事より少なくとも5年とあるから、材質と特徴の多様化も当たり前にあると思います。郊壇下官窯器から多少哥窯器の面掛けがあるだが、もはや”哥窯”とは言いにくい製品です。
(台北故宮博物館蔵 宋哥窯とされるもの? 黄色ものですから、南宋後期のものではないかと思います。)
ここで一つ問題ですが、我々がいう”哥窯”というものは章氏兄弟が作ったものに限るか?龍泉の地に限るか?仮に、その技法の伝承に重点置くか?どちらの定義で”哥窯”と認めるか?難しいですが、章氏兄弟はあくまでも伝説ですから、本文はこれから、所在地と工芸技法に重点置いて、歴史的に哥窯を見る。
景徳鎮窯が元青花と釉裏紅を作ったのは元の後期です。景徳鎮窯は地方窯から全国性大窯への成長は、元の時代に入ると朝廷の枢府から徴用された経緯があった。元朝廷は漢式の複雑な祭典はないので、陶磁祭器の必要性もない。元枢府からの徴用は基本的に官公実用品です。
元朝廷は白いものが好む。元皇帝は”白龍の化身”という伝説があります。だから、景徳鎮窯の製品は朝廷の趣味のあわせて、元景徳鎮の白釉ものは透明感のある影青釉から濁白釉へ変化した。
南宋後期は、南宋官窯も存在しないから、そのような記載もない。南宋後期の官用磁器は龍泉窯と景徳鎮窯のどれから調達したと想像できます。このことは龍泉窯の倣官窯品の存在の理由にもなった。また、私は官窯跡地で焼き続けている可能性は肯定している。正しい、その時の属性は民窯である。
(台北故宮博物館蔵 宋哥窯とされるもの)
(宋哥窯とされるもの 青→白へ変化途中にある)
元の時代に入ると、龍泉哥窯の伝承人たちは、官窯写しから元朝廷の趣味(それとも社会の風習の変化)へ合致するように、釉色を改良した。そのごろから浅い色の青磁、米白や月白色が出来た。龍泉哥窯の用土は弟窯と争いを避けるために、
杭州官窯用土の処州黒土を使っていたと思うから、哥窯の特徴は大らかに保存されたが、磁貫の入り方や釉色の綺麗状態は明らかに南宋官窯に負ける。
(北京故宮蔵 宋哥窯葵口盤 光沢は強いから南宋ものと思われる。)
これら、”南宋官窯に負ける”、しかも”細かい磁貫”、”磁貫線は太くない”、”浅く、白く釉薬”ものは、明清文献上に”古哥窯”や”旧哥窯”と呼ばれていて、乾隆皇帝にまで収蔵された”宋哥窯”も同様な特徴をしているものは、実は私からの判断では、元の哥窯である。
(乾隆旧蔵 宋哥窯炉 白く艶消しだから、元のものと思われる。)
この論断は1996年老虎洞修内寺窯跡の地層発掘に支持されている。南宋には白い哥窯はない。なぜ、今まで、”元哥窯”を古哥窯と呼ばれて、南宋哥窯と混同していた理由は、実に南宋官窯は龍泉窯から発祥した哥窯の分窯であることは意識をしていなかったためであると思う。
当然年代的には哥窯と弟窯が開創した章氏兄弟の百年以後になっているので、龍泉窯の人は哥窯の技術を受けついていたと思う。しかし、初期修内寺官窯とは品質は悪くなっているし特徴もはっきりとしません。このごろに杭州官窯を後継ぎした窯は哥窯と呼ぶべきか?上にも質問しているようにどれかが重点を置くべきか?私はやはり産地と技法は重点と思うので、私は、南宋後期に”哥窯”の継承は龍泉窯にあると思う。しかも哥窯創初以来、一時哥窯の中心は杭州に移してから、杭州の地に哥窯の香火が絶やさなかったほか、青色以外の釉色も創出した。その理由で、私は”哥窯”という一脈相承の窯が存在したと定義します。
時々、古陶磁市場に”明処州龍泉官窯”とされる黒い土、透明感のある青磁で、太い磁貫が入るものが見られる。盆、碗、香炉などがありますが、市場価格は明龍泉窯(七官青磁)より高い。
(明処州龍泉官窯とされるもの。その磁貫から哥窯と呼ぶ人もいる。)
(こゆう器を近代写しという人もいるだが、無知だと思います。
私自身ではこのような青磁炉と盤を販売したことがあります。現品の状態や作り、土の古さから明初のものとしては相応しい。当時は明龍泉処州官窯の名前で販売していた、中国の方に買われて、取引価格は炉が40万円だったと覚えていた。)
以前私も”明処州龍泉官窯”の存在を認めた記事を書いたので、興味がある方はブログを検索してみてください。
明処州龍泉官窯器の土は処州黒土、これは七官青磁と一番の違うところ。後は哥窯と思わせる太い磁貫が入る。ものにより二重磁貫の金糸鉄線現象が見られる。
しかし、旧哥窯と大きな違いは釉薬が透明で翠青色。透明=明ですから、この変化は明朝廷の趣味と関係していると思われるほか、釉質は七官青磁と近いから、明初めの哥窯は杭州から処州へ逆戻りしたではないかと思います。
明初の洪武年は定都南京ですから、官用品は景徳鎮窯から水路で調達は非常に便利ですけれども、景徳鎮地区を明の統一されたのは永楽4年と遅れたため、初期南京朝廷の官用品は龍泉窯から調達したことは文献に明らかな記載がないが、
”処州官窯”と一言の文字が見られる。
”処州官窯”と一言の文字が見られる。
この時期はまさか龍泉哥窯の伝承人達の復興のチャンスですから、こゆう”処州龍泉官窯”と言われる磁貫物の青磁が作った。私の言葉では、この”処州龍泉官窯”品は宋官哥の技法と特徴に近いので、明初の哥窯と呼ばれても問題がない。
残念かどうかは分かりませんが、永楽4年以降に明朝廷はまず景徳鎮のある江西省を収復、首都は北京に移したから大運河の水路も景徳鎮窯を助かったから、永楽以降に龍泉窯の衰退はじまったと同時に龍窯哥窯は終焉した。
#総結#
#1哥窯は南宋龍泉窯の一枝で、南宋、元、明初渡り生産があった。
#2南宋修内寺官窯3年間と郊壇下窯5年の間に哥窯釉を制作していたが、これらの製品は祭器様式の尊杯瓶炉碗をメインとする官窯と呼ぶ(”哥官窯”と呼ぶべきである。)。
南宋150年あまりに、修内寺窯の跡地で哥窯の生産があった。その製品は民用品の碗盤炉をメインとするものは南宋哥窯と呼ぶべき。
#3 南宋哥窯は元の時代で生産が続いた。乾隆旧蔵や故宮蔵品を含む文献上に古哥窯や旧哥窯と呼ばれる浅い色の哥窯ものは元の時代製品です。
#4.明初処州龍泉官窯とされるものは明初の龍泉哥窯製品です。
#2南宋修内寺官窯3年間と郊壇下窯5年の間に哥窯釉を制作していたが、これらの製品は祭器様式の尊杯瓶炉碗をメインとする官窯と呼ぶ(”哥官窯”と呼ぶべきである。)。
南宋150年あまりに、修内寺窯の跡地で哥窯の生産があった。その製品は民用品の碗盤炉をメインとするものは南宋哥窯と呼ぶべき。
#3 南宋哥窯は元の時代で生産が続いた。乾隆旧蔵や故宮蔵品を含む文献上に古哥窯や旧哥窯と呼ばれる浅い色の哥窯ものは元の時代製品です。
#4.明初処州龍泉官窯とされるものは明初の龍泉哥窯製品です。
哥窯の変遷:処州龍泉村章生一窯(始創)→杭州老虎洞へ移転(修内寺官窯)→杭州鳳凰山下へ移転(郊壇下窯)
→南宋哥窯(民窯)→元龍泉哥窯(古哥窯)→明処州龍泉官窯(明初哥窯)
哥窯釉面の時代特徴:
南宋(=官窯):天青色、青黄色、色深い、失透明、油性光沢。金糸鉄線、網状磁貫。
元(龍泉哥窯):黄色、象牙色、月白色、色浅い、粉々無光沢。粉砕状磁貫。
明初(処州官窯=龍泉哥窯):翠青、透明、網状磁貫。
南宋(=官窯):天青色、青黄色、色深い、失透明、油性光沢。金糸鉄線、網状磁貫。
元(龍泉哥窯):黄色、象牙色、月白色、色浅い、粉々無光沢。粉砕状磁貫。
明初(処州官窯=龍泉哥窯):翠青、透明、網状磁貫。
哥窯器の地方特徴:
土:処州黒土 焼成後に紫口鉄足現象が見られる。
水:杭州地方は網状太い金糸鉄線、龍泉地方は細い粉砕状細い鉄線
土:処州黒土 焼成後に紫口鉄足現象が見られる。
水:杭州地方は網状太い金糸鉄線、龍泉地方は細い粉砕状細い鉄線
共通特徴:
釉面に灰汁状泡が処処に密集する現象がある。
釉質は”油酥(小麦粉を混ぜたバター)”状態。粉質青濁釉。
釉面に灰汁状泡が処処に密集する現象がある。
釉質は”油酥(小麦粉を混ぜたバター)”状態。粉質青濁釉。
福縁堂主人