等々力渓谷の成因をめぐって | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

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私は、イタリア児童文学が大好きで、皆既日食も大好きで、足摺岬も大好きな、団塊の世代に属する元大学教員で、性別はMTFです。季節の話題、お買い物の話題、イタリア語の勉強のしかた、新しく見つけたイタリアの楽しい本の話題などを、気楽に書いていこうと思っています。

先日、田園調布の秘境「籠谷戸」の話を書きましたが、

田園調布の秘境「籠谷戸」 | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き (ameblo.jp)

 

あそこに限らず、わたしが昔からなじんでいる田園調布から瀬田にかけての国分寺崖線には、台地に谷が食い込んだ場所がいくつか観察されます。

000061699.pdf (gsi.go.jp)

 

瀬田より西の国分寺崖線については、わたしは訪れる機会が少なくて、細かいことを知らないのですが、たぶん似たり寄ったりだと思います。

 

そうした「谷の食い込み」がとりわけ深くなった結果、とうとう台地を突き破って北側のもうひとつの川筋まで谷が到達してしまった結果、その川(九品仏川)を争奪してしまったのが、等々力渓谷だと言われています。

 

これについては、この渓谷の深く掘れたありさまが、周囲のいくつかの谷戸に比べてあまりに度外れていることから、人の手が加わった結果のものではないかとの説もあります。以前にわたしも、これに関する諸説をめぐっていろいろ考察してみたことがあります。

等々力渓谷をめぐるさまざまな謎 | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き (ameblo.jp)

 

ただし、河川争奪後年月が経った現在の渓谷の深さをみて、「自然にできたにしては土地のえぐられようが顕著すぎる。だから人工だ」と結論づけるのは、少々早とちりだと思います。

 

というのは、現在の渓谷の川床が周囲の台地と比較して標高にして20メートルぐらい掘り下がっているからといって、争奪が起きた時点での川床もそれだけ掘り下がっていたということにはならないからです。

 

過去に河川争奪が起きたと思われる地点、つまり等々力駅からゴルフ橋あたりの土地、すなわち旧九品仏川(現在の九品仏川と谷沢川上流とを合わせた川)の川床だった土地の標高をみると30メートルぐらいであるのに対して、渓谷が終わって視界が開ける場所(等々力不動の階段下から少し南)の標高は10メートルぐらいです。その中間にある環状八号線の道路が通っている尾根(かりに環八尾根と呼んでおきます)は、標高35メートルぐらいです。川下から見てこそきわめて高い台地だけれど、等々力駅側から見ればほんの少しの高まりにすぎません。これは、等々力駅から南へ出て、用賀中町通りが環八と交わる交差点方面をながめてみるとわかります。ゆるい坂の先にわずかな高低差で環八がみえます。

 

そもそも、旧九品仏川の河道を中心にして少し曲がりくねりながら広がっている平坦な土地が本来の意味の「奥沢」ですが、

「奥沢」という地名は本来どこを指すか | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き (ameblo.jp)

その「奥沢」の北側と南側の高台のありようは対照的です。

 

北側は、九品仏浄真寺の裏から産業能率大学のある尾根への上り坂や、等々力駅前から玉川警察署にいたる上り坂などをみればわかるように、かなり標高差のある高台になっていますが、南側は、尾山台駅や等々力駅から環八までの緩い坂道を登ってみればわかるように、わずかな標高差で尾根へと達しています。

等々力 - Google マップ

 

(19) Musao Naga on X: "@shihuzoo いつ、人為的なのか、自然になのか、不明のようですね 高低図見るの面白いですね 等々力渓谷は、等々力駅あたりで川の流れを奪ったようですけど、石神井川は不思議ですね https://t.co/CZYDMzlfCN" / X (twitter.com)

 

しかもその環八尾根は、環八が等々力渓谷を跨ぐ玉沢橋のあたりでは少し低くなっていますから、そこでの標高はたぶん33メートルぐらい。河川争奪点から3メートルぐらいしか高くなっていません。

 

そこで、谷沢川とつながっていなかったころの、今の等々力渓谷の場所を流れていた短い川をかりに「等々力川」と名づけると、等々力川の谷頭が北へ北へと浸食を進めて、現在玉沢橋のある地点(鞍点)まで到達したとき、その谷が3メートルほどの深さをもっていたなら、それでもう十分、川床は等々力駅やゴルフ橋の標高と同じになっていたはずです。

 

あとは、浸食がもう少し北へ進んで、玉沢橋~ゴルフ橋間のわずかな高まりを崩しさえすれば、谷頭が到達した場所はすでに旧九品仏川(現在の九品仏川と谷沢川上流とを合わせた川)の川床ということになり、争奪が成立します。

 

そして、谷沢川上流からの水が等々力川のほうへと流れ込み始めたことで急に等々力川の水量が増し、しかも水平距離1キロほどの短い流路を流れるあいだに標高が20メートルも下がるため、川床の傾斜がきつく、浸食は一気に進むことになります。

 

こうして、争奪が起こってから千年単位の年数を経れば、ゴルフ橋付近の川床も20メートル近く深くなったとしても、不思議ではありません。

 

というわけでわたしは、いろいろ迷いはしたものの、現在のところの結論としては、等々力渓谷は人の手の加わらない自然のままの河川争奪でできたものだという説に傾いています。