今日、カトリック六甲教会の英隆一朗師から年末年始の簡単なごあいさつが届きました。ご多忙中にまことに恐縮ですが、これは拙著『間違いだらけの靖国論議』を献呈しておいたことへのお礼状です。
イエズス会士だったビッテル神父に関する話が拙著の中に書いてあるので、ご参考までに英師にもお送りしておいたのです(英師もイエズス会)。
右翼の人たちが好む「ビッテル神父伝説(終戦直後に靖国神社を焼き討ちから守ったのはカトリックのビッテル神父である、だからカトリック教徒こそは率先して靖国神社にお参りすべきであり、首相の靖国参拝をも支持すべきである、という伝説)」の真偽を検証する作業は歴史学のテーマなので、直接信仰に関係するものではありませんがね。
ともあれ、ごあいさつ状で触発されて、英師の昨秋の黙想会講話を再拝聴しました。
黙想すべき聖書の箇所はまず「ガラテアの信徒への手紙」。
「自由」とは「不偏心」………大切ですね。
「自分が犯した罪に気づくこと自体がむずかしい」……そうですねえ。
「後悔」と「痛悔」とは違う。………これも今まで気がつかなかったです。
第4講話での黙想すべき聖書の箇所は放蕩息子の話。………ミサで読まれる機会も多いですが、毎度、新しく考えさせられるものがあります。
「悔い改め」ができること自体が神の恵みによる。……なるほど。
「自分の罪を認める」ことができるのは神の赦しがあるから。……なるほど。そこが、ジョージ・オーウェルのディストピア小説『1984年』にあるようなこの世の独裁者に宛てて「自己批判文」なんぞを書く場合と違うんですね(そういう場合は十中八九面従腹背で、内心では納得してないですからね)。
「詩編130」を黙想する | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き (ameblo.jp)
最後に、宗教をやればやるほど「放蕩息子の兄」になってしまうのが、宗教のもつ落とし穴。……なるほど。