気が滅入る毎日が続いています。
そんな日々、思い出されてならないのは「詩編130」の、とりわけ「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。しかし、ゆるしはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです」の箇所。
権力を握った政治家たちの腐敗堕落がニュースになっていながら、社会のあらゆるところに「忖度」がはびこるがゆえに、悪情報は中途半端なまま引っ込められ、有権者の「民度」は上がらない。「あれが罰せられずにおかれようか」と、ある種の「正義感からする苛立ち」をおぼえる日々。
と同時に、自分自身を振り返って、「もし神がわが悪行の数々を逐一とことん罰するとおっしゃるなら、とてもみ前に立てたものではない」と痛感もするわたし。
政治権力が革命的な変革によってくつがえされたときには、旧悪を徹底的に糾弾する新権力によって、「人民の敵」等の烙印を押された者はとことん処罰されるということが現にあったし、そのような「正義」を期待したくなる心が、わたしにもある。けれど同時に、20世紀でも、さらに21世紀に入ってからも、くり返されてきた政治的正義による「粛清」の醜さ(新たなる恐怖政治)をも、飽きるほど見せつけられてきたわたしたち。
ああ、いったいどこに救いがあるのか?……と思ったとき、この「詩編130」を身につまされて心にかみしめます。神がもしあの種の「政治的正義」の神であるなら、いったいわたしたちは何に対して畏敬の念を抱けようものか、何に希望を託せようか……と。
「詩編130」について解説しているサイトを複数みつけましたので、リンクします。
まずプロテスタントの教会のサイトから。「義は義によって義であるのではなく、義は愛によって始めて、真に義であることができる。そうでなければ義はしばしば憎しみに変わる」と。
つぎに教皇ベネディクト16世の言葉。「重要なことは、主への敬い、すなわち愛を伴った主を畏れる態度は、罰から生じるのではなく、ゆるしから生まれるということです。神の怒りよりも、寛大で、恐れを取り除く神の広い心が、わたしたちに聖なる畏れを引き起こします」と。