先日多摩丘陵の地理に関連して「谷戸」という言葉をご紹介しましたが、
武蔵野台地と多摩丘陵は対照的 | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き (ameblo.jp)
じつはわたしは、子どものころ、都内にあるその種の地形の典型的なひとつに、親しんでいました。大田区田園調布と世田谷区玉川田園調布の境い目にある「田園調布の高台に西からぐっと谷が食い込んでいる場所」。
最近知ったところによると、むかしから「籠〔ろう〕谷戸」と呼ばれて、奥沢城(現在の九品仏浄真寺のあるところ)の城主が戦略上重視していた場所なのだそうです。戦国時代にはその谷戸が水で満たされていて、多摩川から舟で運んできた物資をそこで陸揚げして、奥沢城へと運び込んでいたのだそうです。
下にリンクするサイトが載せている地勢図の中の「籠谷戸」という文字が書いてあるあたりの南側に、確かに西から東へと袋状に食い込んだ低地が観察されます。
東京の水 2009 fragmentsの画像|エキサイトブログ (blog) (exblog.jp)
1950年代には、その谷戸の中の低地は、住宅もちらほらあるけれどもまだかなりの部分に昔ながらの田畑が残っており、谷戸の入り口あたりの平坦な土地には田園調布雙葉学園(雅子皇后の母校)の中学・高校がありました。同学園の小学校はメインの谷から分岐して北側に延びている谷の、半ば台地に上がりかかった場所にありました。(今も学校の配置はそのままのようです。)
学園について - 田園調布雙葉学園 (denenchofufutaba.ed.jp)
そして、地勢図の中のまさに「籠谷戸」の文字が書いてある部分は、台地の一部が谷に向かって少し突き出た岬のようになっていて、そこに田園調布雙葉学園を経営している女子修道会の修道院がありました(修道院に併設されて幼稚園もありました)。修道会の名称は現在は「幼きイエス会」ですが、当時カトリックはキリストのお名前を「イエス」と言わずに「イエズス」と言っていましたから、修道会の名前も今とは違っていたでしょう。詳しいことは知りません。
谷戸の底の低地から少し丘に上がりかけた斜面にはまだ住宅地として開発されていない雑木林や竹藪が広がっていました。そして、谷戸をぐるっと囲んでU字型に存在する高台、つまり田園調布台地の西の端っこにあたる一連の見晴らしのよい土地は、住宅地として開発されていて、かなり羽振りのいい人たちの住宅がありました。
谷戸の低地の東の端の、ここから先は竹藪という場所に、自然の湧き水でできた小さな池があり、その周囲が古畳の捨て場になっていたのを幸いに、近所の子どもたちがそれを五枚ぐらいずつ重ねて何個かの筏をこしらえ、竹ざおで池の底を突いて前進・後退させる舟遊びをしていました。そのワイルドな「畳舟」、わたしも数回乗ったことがあります。
わたしが小学校を卒業してまもない1960年代に、住宅開発業者がその池を埋め立て、その上にさらに盛り土をして水はけのよい造成地を作り、分譲してしまいましたので、今や昔の面影は残っていません。
池が埋められたあともしばらくは残っていた雑木林や竹藪のある斜面も、しだい宅地としての開発が進んでゆき、21世紀に入るころには、田園調布の西端に残る最後の秘境だった籠谷戸も、びっしり住宅で埋め尽くされてしまいました。
(追記)
つぎにリンクする「谷沢川の河川争奪」という表題のサイトは国土地理院関東測量部が提供しているものだそうで、メインのテーマは等々力渓谷の成因に関するものですけど、地勢図の下端あたりに籠谷戸も見えています(谷が修道院のある丘をはさんで東向きと北向きに分岐しているので、低地全体はハート形にみえます)。
これを引用しているのは、つぎのブログで、とても参考になります。
等々力駅前逆川跡を散策する・・・の巻 | 乾パンのブログ (ameblo.jp)