「等々力渓谷人為開削説」の無理 | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

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私は、イタリア児童文学が大好きで、皆既日食も大好きで、足摺岬も大好きな、団塊の世代に属する元大学教員で、性別はMTFです。季節の話題、お買い物の話題、イタリア語の勉強のしかた、新しく見つけたイタリアの楽しい本の話題などを、気楽に書いていこうと思っています。

一昨日、等々力渓谷の成因について簡単に書きましたが、

等々力渓谷の成因をめぐって | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き (ameblo.jp)

 

あの問題については、ずいぶん前にも、Yahoo!JAPAN知恵袋で討論したことがあります。

等々力渓谷の成因について。 - 等々力渓谷の上流である「谷沢川」... - Yahoo!知恵袋

 

そのときの問答でわたしがベストアンサーに選んだkih***さんの見解は、以下のとおりで、説得力があると思います。人為開削説の無理を解き明かしてくれています。

 

(以下引用)

 等々力駅付近のゴルフ橋から環8の玉沢橋までの直線300m程度ならば古墳時代での技術と人力で開削はできたという人もいます。 

 技術的に可能だということと、実際にやったのかとは別だと思います。 

 古墳時代から奈良時代に懸けて、野毛大塚古墳やら等々力渓谷横穴古墳が作られていますから、財力や技術力のある人がこの付近には生活していたのだろうと思います。しかし、等々力渓谷横穴古墳を作る人が、排水路として掘削した崖面に墳墓をこしらえるとは思えないので、この古墳を作る当時には自然の渓谷、崖面があり、たぶん、谷頭開析した地域で、その頭は最低でも玉沢橋付近まではあったのだと思います。 

 ところで、奥沢城・九品仏浄真寺は台地の上にあり、周囲は湿地、深田圃状態だったそうです。そうすると、奥沢城を作った当時には、この付近の低地は、湿地=一種の要害だったわけです。

  谷地に水田を作るのは水田耕作する初期には自然な行為ですが、水利工事ができるようになるともっと開けた土地に水田耕作の拠点を求めていくのが一般に見られる流れです。流れ込む水量に困ってそれを減らすために、上流に開削工事して流れを変えることもあってよいとは思いますが、そうした工事を済ませたあとも深い田圃、湿地のままだったというような工事をするとは思えません。

 この付近も、他の谷地、崖線と同様に湧き水があちこちから出てくる土地柄なのですから、上流の1本の河川の水量が一番問題だったとしても、その工事を企画するとは思えません。

 たぶん、自然が作り出した地形なのだと思います。

 分水嶺を越えて谷頭開析するのはおかしいという考えもあるとは思いますが、地下水位が現状とは違って、もっと水位が高くなっていたのであれば、地下水の流れる方向も現状とは違っているということは十分に考えられると思います。

(引用終わり)

 

ベストアンサーには選びませんでしたが、つぎのlen***さんの回答もおおむね賛同できるものでした。

 

(以下引用)

 河川の浸食力は、河床の傾斜と水量に比例します。等々力渓谷が深く削れた原因は、排水される側の多摩川の河床と争奪地点の間の距離が短く高低差が大きいことと、矢沢川の水を集めることで水量が増したことです。それから、これは個人的な推測ですが、ある程度深く掘り込むことで帯水層を掘り抜き、側縁からの湧水が流量の増加に寄与したのもあると思います。不動の滝はじめ、実際ににじみ出るような湧水は非常に多く見られます。 

 原等々力川の遡上と河川争奪による渓谷の掘削は万年単位の時間をかけて行われたもので、比較的新しく掘削され易い地層を流れる場所なので人の手を借りなくとも十分に形成されます。 

 人工でないと考える理由は、例に挙げている神田川の直線的形状に比べて曲流の激しいこと。比較的崩れにくいにせよ、擁壁となるような工事がされていないこと。 

 江戸時代でも、神田川の掘削(四谷の外堀掘削も)はかなりの大工事でした。徳川幕府が権力を固め、各大名に命令することができたから可能だったわけです。大きな土木工事がある程度可能になったのは、戦国時代以降で、それ以前には大工事をするというのはなかなかできなかったと思います。 

 不動の滝のある等々力不動尊の縁起は、興教大師がお告げで訪れたところ渓谷があったので、笏で穿って滝を作ったというのも、1100年代には等々力渓谷が存在していたという傍証になるとおもいます。 それから、矢沢川を多摩川に落とす流路変えをする理由が見つからないこと。 

 江戸城の外堀を作るという目的は、時の権力者の命令ですから強い意志で遂行されます。農業用水の確保にしろ、排水にしろ、九品仏川下流域の狭い範囲だけのために、あれだけの掘削工事をするでしょうか。 

 少なくとも、等々力渓谷上流部で掘削工事の具体的な遺構が出るか、工事に関する古文書出もない限り人工とは言えないと思います。

(引用終わり)

 

このlen***さんの回答の中で言及されている神田川の流路つけかえ工事のことについては、先日当ブログでも言及しましたので、そちらをご覧ください。

御茶ノ水駅付近の神田川は人工河川 | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き (ameblo.jp)

 

三番目のやましげさんの回答は、直接等々力渓谷の成因に関する議論というよりは、現在の谷沢川と九品仏川の分水界はどのへんにあるかの話が中心ですが、参考にはなります(やや未整理な文章の感じがしますが)。

 やましげさんは「満願寺川」を「等々力支流」と呼び、それが谷沢川の支流なのか九品仏川の支流なのかに説き及び、河川争奪後、それは逆川につながって等々力渓谷側へ落ちていたのを、近年になって(昭和初期ごろ?)人為的に九品仏川のほうへ繋いだのではないかとの、興味深い説を唱えておられます。

 わたしもその回答をみたとき一瞬、そうかと思ったのですが、その結果現在の谷沢川と九品仏川との分水界は駒八通りより西、ひいては等々力駅よりも西にあると結論づけておられるのは、この問答のあとに現地を観察に行ってみて、無理な説だとわたしは判断しました。

 ゴルフ橋の下で等々力渓谷に落ちる今は暗渠となっている逆川は、下にリンクするブログが現地調査にもとづいて明らかにしているように、目黒通りより東側から(したがって当然、駒八通りより東側から)谷沢川に向いて流れているからです。

等々力駅前逆川跡を散策する・・・の巻 | 乾パンのブログ (ameblo.jp)

 

(以下引用)

 谷沢川は私が確認したところ、東京農大の西側、世田谷通りの北側すぐの傾斜辺りが源流と思われます。 

 関東中央病院脇から用賀を抜け、中町を抜けて等々力渓谷から丸子川と交差し多摩川へ注ぎます。 

 並行するように呑川が桜新町から日体大脇を抜け、都立大学、緑ヶ丘を抜け九品仏川と合流します。 

 日体大から上野毛には小さな尾根があって呑川と谷沢川の分水嶺となっています。 

 その尾根は目黒通りまで続き、目黒通りが分水嶺となり、呑川と九品仏川となります。 

 そして谷沢川と九品仏川の両方の川を確認しましたが、駒八通りのやや西側が小さな分水嶺となり、九品仏川に注ぐ流れと谷沢川に注ぐ支流があるように思えます。 

 谷沢川が等々力渓谷に向かわずに九品仏川に合流できるとすると大井町線沿いに流れるしかありません。 

 そこには確かに暗渠があり駒八通りの西側から駒八通りに並行して北に向かっています。それを上流側に行くと結果的に九品仏川に合流しています。 

 その結果を考察すると、九品仏川と谷沢川は別物で、九品仏川の源流付近から谷沢川の支流(等々力支流)をつなぐ用水路を作って農業用水や増水時の逃げ道を作ったように思います。

(引用終わり)

 

「日体大から上野毛には小さな尾根があって……」のあたりについては、下にリンクする地勢図を見ながら読むとよくわかります。

000061699.pdf (gsi.go.jp)