等々力渓谷をめぐるさまざまな謎 | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

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私は、イタリア児童文学が大好きで、皆既日食も大好きで、足摺岬も大好きな、団塊の世代に属する元大学教員で、性別はMTFです。季節の話題、お買い物の話題、イタリア語の勉強のしかた、新しく見つけたイタリアの楽しい本の話題などを、気楽に書いていこうと思っています。

上野毛の修道院の話が出たついでに、そのすぐそばの等々力の話をしましょう。

 

東急大井町線の等々力駅の近くには、東京23区内には珍しい自然の宝庫である「等々力渓谷」があります。この渓谷とその周辺一帯は地理学的にみて興味深い地形をしています。昔のある時点までは、現在等々力渓谷へと流れ込んでいる谷沢川は、渓谷に落ち込むことなく、等々力駅付近の平坦な土地を東へと流れ、尾山台駅付近を通り、九品仏浄真寺のある小高い丘の北側を回り、現在の九品仏川の川筋(今では暗渠になってしまいましたが)を流れていたというのです。

 

 

 

つまり、昔のある時点までは、九品仏川の上流は谷沢川にほかならなかったというのです。それが、今のように、谷沢川は南へ向きを変えて等々力渓谷へと落ち込み、九品仏川のほうは「奥沢」と呼ばれる平坦な沢の中央を流れるようになったのは、二つの川のあいだで起こった「河川争奪」の結果だと言われています。あるいは、自然の「河川争奪」ではないけれども、人の手が加わって結果的に「河川争奪」と同じ状態になったのだと主張する人もいます。

 

そこでまずは、「河川争奪」の基本を教えてくれるサイト「川が川を奪う?」のリンクを見ていただきましょう。

http://www.t-map.co.jp/old/cafe-2.htm

(残念ながらリンク切れとなりました。代わりにつぎのWikipediaの説明をリンクします)

 

 

 

渓谷の成因について、河道をつけ変える人為的な工事が行われたのだと主張する論文「等々力渓谷の謎」は、地盤環境エンジニアリング㈱のホームページに載っていますから、それもリンクしておきましょう。

http://www.jkeng.co.jp/column/column048.pdf

 

いずれにせよ、現在では、等々力渓谷をなす谷沢川が深い谷を刻んで流れているのとは対照的に、河川争奪点から東の、かつての谷沢川下流が存在したと思われる沢は、非常に平坦な土地になっているため、一見すると、水流が西から東へと流れているのか、それとも逆に東から西へと流れているのかがわからないほどです。とりわけ、一帯が宅地化して、水流の暗渠化が進んでしまった現在では、自然のままの九品仏川はどう流れていたのかが、とてもわかりにくくなっています。

000061699.pdf (gsi.go.jp)

 

さらに厄介なことには、河川争奪の起こったと思われる地点から少し東までは、旧谷沢川の河道を流れる水の向きが逆になってしまう現象が起こったことです。これは、争奪以後の谷沢川の谷が水量を増して深く浸食されていったのに対して、上流からの水の供給を断たれた九品仏川(旧谷沢川下流)は水流が衰え、両岸を侵食しなくなたためです。つまり、そのあたりの旧谷沢川の河道の標高は新谷沢川より高くなってしまったため、争奪点へ向かって水が逆に落ちるようになったのです。その逆向きに流れるようになった水路は、その名もぴったりの「逆川」と呼ばれて、暗渠化された今も、その跡が残っています。暗渠が等々力渓谷に流れ込む出口も、同渓谷に架かる「ゴルフ橋」と呼ばれる橋の上から観察することができます。

 

そして、暗渠化以前の古地図を見ると、短いながらも確かに東から西へ流れる「逆川」があったことがわかります。その逆川と一連につながっている旧河道のどこかが、川の向きの変わる、いわば「川筋の峠」となって、そこより東はもとどおり西から東へと水が流れ、それが下流でははっきりと「九品仏川」とわかる流れとなっていたはずです。

 

普通の地理学上の「分水嶺」は、はっきりと「尾根」の形をしていますから、識別が容易ですが、いま論じている例におけるような「水流の向きの境目」は、同じ川床の中のわずかな高みでしかありませんから、水流が暗渠化されてしまった今となっては、もともとの「峠」はどこにあったのか、人によって意見が分かれることになります。

 

「三道楽ノート」というブログの今年2月2日の記事には、昭和5年ごろの貴重な古地図が大きく載せられていて、現在のゴルフ橋付近に西に流れる「逆川」があったこともはっきりわかるのですが、ブログの書き手が推測している分水界の位置と、その先入観にもとづいて青色で書き込んでいる「この範囲が九品仏川」、「この範囲が逆川」という注記は、まったく誤っています。

 

 

 

ブログ主は、分水界は九品仏浄真寺の北西側にある現在の「ねこじゃらし公園」付近と推測し、そこから西は全部「逆川」だったかのように考えていますが、その見解が成り立たないことは、地図の等高線を見ればわかります。等々力駅の東側に等高線が一本通っていて、その東側が沢(低い側)、西側が丘(高い側)になっているではありませんか。

 

後に耕地整理がなされて、川筋が直線化され、人の手が加わったため、私は、自然のままの流れを見たことはありません。が、それでも、昭和30年ごろはまだ水路が暗渠化はされていなかったため、尾山台駅付近の線路の北側で、今は暗渠となって駐輪場になっている場所の水流が、西から東へ向いていたことを、私は記憶しています。つまり、その水路は、九品仏川の上流だったわけです。

 

が、逆の極端な説として、下にリンクする「世田谷の川探検隊」というサイトの採用している説があります。

 

 

このサイトでは、九品仏川の上流が尾山台駅よりさらに西にあることを正確に突き止めてはいるのですが、等々力駅のすぐ東にある、線路の下を南北に貫いている開渠も、九品仏川の上流であるかのように紹介しており、その開渠へ向かって北から流れ込んでいると見られる「満願寺川」という(ほとんど暗渠化された)流れを、九品仏川の支流だと紹介しています。

 

そうだとすると、いったいどこから先が谷沢川へ向かって西向きに落ちる流れなのか、このサイトでは不明確です。ひょっとすると、「逆川」自体、九品仏川の上流であって、分水界はゴルフ橋の直前(等々力駅西のバス通り)にあると考えているのでしょうか?

 

というぐあいにして、この沢のいったいどこに分水界があって、どこからどこまでが東向きの流れで、どこからどこまでが西向きの流れなのか、ますますわからなくなってきます。

 

その結果、昭和初期の耕地整理の際、大井町線の線路をはさんで北側と南側に、逆向きに流れる水路が作られ、北の流れが九品仏川につながり、南の流れが逆川につながるようにされたのだろう、という奇抜な説まで飛び出してきました。

 

 

だが、これはいくらなんでも「珍説奇説」と言うべきでしょうね。

 

私が調べたところによると、等々力駅のすぐ東に、線路の下を南北に横断する開渠があって、そこの水は、ごくゆっくりながら北から南へと流れています。開渠の水は北側のコンクリート管の暗渠から出ていて、南側のやはりコンクリート管の暗渠へと吸い込まれています。その行く先を推測すると、等々力駅の少し南にある「逆川」の河道跡へとつながります。

 

そして、その開渠からさらに百メートル弱東へ行ったところに、もうひとつ、線路の下を南北に横断する開渠がありますが、こちらは先の開渠ほど深くありません。水は停滞しています。そして、第一の開渠と第二の開渠をつなぐように、線路の南側に線路に沿った第三の開渠があるのですが、ここの水がどっち向きに流れているかが決定的に重要です。

 

観察しにくい場所にありますが、周囲から近づけるだけ近づいて調べたところ、この開渠は、第一の開渠から水を供給されるほど低い所を流れてはおらず、川床が第一開渠より上がっています。では、逆に第一開渠のほうへ水を供給する流れになっているかというと、そうでもありません。おかしなことに、西端は水がなくて「ひからびて」いて、東端は水が溜まっています。ということは、この第三開渠は、もし水を流せば東向きに流れる傾きをもっているというわけです。

 

その延長らしき暗渠が線路の南側にありましたが、開渠と暗渠のあいだで急に流れが正反対に変わっているとも思えませんので、さきほど紹介した「線路の南側は西向きに流れる水路」という「珍説奇説」は成り立ちがたいと思います。いずれにしても、この第三開渠は逆川へ向かって流れてはおりません。

 

結局、この第三開渠のあるあたりが、九品仏川と逆川との分水界ということになりそうです。下にリンクする「乾パンのブログ」の2014年10月2日の記事が、これまで見た中でいちばん納得のいく推論になっています。

 

 

 

ところで最後に気になるのが、先ほどもちょっと言及した「満願寺川」のことです。カルメル会上野毛修道院を自転車で訪ねたいとき、目黒通りから分かれた上野毛通りを西へ行くと、首都大学東京等々力キャンパスと玉川警察署とのあいだが、少し谷になっています。昔はそこに小川が流れていたのを思い出しました。

 

そこで、あの川はどうなったかと調べてみると、大部分が暗渠になっているけれど、ところどころ開渠があって、確かに川だとわかります。その川筋を下ってゆくと、満願寺というお寺の塀に突き当たり、そこから先、境内の墓地を突っ切る暗渠になっていることがわかります。が、その先は行方不明。いちばん素直に解釈すると、その流れが地中に埋設されたコンクリート管につながって、例の等々力駅東側の第一開渠に行き着くように思えます。

 

ネット上でこの小川について検索してみると、有力な情報を載せたサイトが二つ見つかりました。ブログ「示山橋」の2010年7月25日の記事と、ブログ「暗渠徘徊の日々」の2011年10月27日の記事です。

 

 

 

 

 

 

どちらも、満願寺川は逆川の支流であるとの見解を採っているようです。というわけで、私もこの際、満願寺川は逆川を通じて谷沢川のほうへ流れ落ちていると理解することにしましょう。少し前までは、満願寺川は九品仏川の支流だという「世田谷の川探検隊」の見解のほうが正しいかのように思っていたのですが、あの見解には少し無理があるようです。

 

 

(参考)↓

等々力渓谷の成因について。 - 等々力渓谷の上流である「谷沢川」... - Yahoo!知恵袋