「奥沢」という地名は本来どこを指すか | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

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私は、イタリア児童文学が大好きで、皆既日食も大好きで、足摺岬も大好きな、団塊の世代に属する元大学教員で、性別はMTFです。季節の話題、お買い物の話題、イタリア語の勉強のしかた、新しく見つけたイタリアの楽しい本の話題などを、気楽に書いていこうと思っています。

昨日の「等々力渓谷」の話の続きとして、「奥沢」という地名は本来どのへんを指すのかという話をしておきましょう。というのは、現在東急目黒線の「奥沢駅」が、へんな場所にあるため、「奥沢」の名が本来指す地域につき、誤解が起こっているからです。

 

昨日も地図をリンクしておいたように、

000061699.pdf (gsi.go.jp)

現在の呑川の支流の九品仏川は、もともとは谷沢川の延長であって、河川争奪点だった等々力渓谷入り口のあたりから東へ向かう河道を流れ、九品仏浄真寺のあるわずかな高まりを避けて、その周囲を西→北→東へとぐるっと回って、自由が丘駅周辺に残っている「九品仏川緑道」の下へと続き、そこからさらに東進して、大井町線緑が丘駅の東側、東京工業大学の西側で呑川に合流する川でした。

 

その川の流域は、高低差の少ない準平地になっていて、北側の尾根(自由が丘学園や産業能率大学やスーパー紀ノ国屋や東京都市大学等々力キャンパスや玉川警察署などのある尾根)と南側の尾根(玉川浄水場と環八通りのある尾根)とのあいだにはさまれて、古くは一面の湿地帯であり、まさに「沢」の名に値する地帯でした。この沢の名前が本来「奥沢」だったのです。

 

その「沢」の中央に、南側の尾根からの続きとして、わずかに高まった土地が半島のように北へ向かって突き出ており、そこに九品仏浄真寺があります。この丘は、浄真寺が開基される前の戦国時代には「奥沢城」という城があったそうで、その土塁も残っていますが、西と北と東の三方を湿地帯で囲まれていたわけですから、まさに要害の地であり、戦国武将が城を築く適地として選んだのも、まことにむべなるかなです。

 

要するに、緑が丘駅付近で東に向かって開けている低地を、西へ西へとたどってゆくと、意外に奥が深くて、曲がりながら今の等々力駅の西まで続いていたわけで、奥の深い沢だから「奥沢」と名づけられたのだと思われます。

 

今の目黒線奥沢駅は、この沢の入り口からわずかに西へ行った自由が丘駅南口から坂を登って、登りつめた丘の上にあるわけですから、沢と名がつきながら、ちっとも沢ではないというへんな場所になっているわけです。そこは要するに「奥沢の入り口から南へ向けて登った尾根の上」であるわけです。

 

あのへんを散策する場合は、以上のことを念頭に置いて、「これが本来の奥沢なんだなあ」と思いながら散策してみると、いろんな発見があって楽しいだろうと思います。

 

 

 

(2024年6月6日追記)

現在「奥沢」という町名のついている一帯の地図をリンクしておきますが、たぶん、戦国時代の地名としての「奥沢」とは少しズレていると思います(私見ですが)。

 

奥沢グリーンマップ地域に長くお住まいの方でも、ふだん通る道から少し離れると意外と知らないところが多いものです。このポケットサイズの小さなマップを持って散歩をしてみると、きっと地域の新しい魅力に出会うことでしょう。 | | 土とみどりを守る会 / Okusawa Garden

 

OGM1.5-A.pdf (okusawa.garden)