消えた「九品仏池」 | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

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私は、イタリア児童文学が大好きで、皆既日食も大好きで、足摺岬も大好きな、団塊の世代に属する元大学教員で、性別はMTFです。季節の話題、お買い物の話題、イタリア語の勉強のしかた、新しく見つけたイタリアの楽しい本の話題などを、気楽に書いていこうと思っています。

先日から「等々力渓谷」や「奥沢」など、東急大井町線の自由が丘駅から等々力駅あたりの地理に関係する話を書いてきましたので、それに関連して、かつて存在した「九品仏池」の話も書いておきましょう。

 

「九品仏池」は、九品仏川流域の土地開発に関連して、1932(昭和7)年ごろから1955(昭和30)年ごろまで、わずか20年あまり存在した池ですが、今から思うと「あれを埋めてしまうとは、もったいないことをしたものだ」と残念に思えますので、環境資源の価値に疎かった当時の都市開発事業を反省する意味もこめて、ここに書き残しておきたいと思います。

 

先日もリンクした昭和5年ごろの九品仏周辺の地図をみますと、九品仏浄真寺のある丘の周囲は田んぼばかりです。丘の北側を九品仏川が流れているだけで、池は見当たりません。

http://blog.livedoor.jp/beckykusamakura/archives/50571940.html

 

ところが、そのしばらくあとの、昭和12年~14年ごろという地図では、丘の北側に九品仏池が出現しています。さらにその北西側の、九品仏川が北向きから東向きに流れを変える境目に四角い形の人工的な遊水地があるのもわかります。

http://madconnection.uohp.com/mt/archives/001922.html

(↑残念ながらリンク切れになりました。)

 

その遊水地の西側に、その後「専浄寺」という浄土真宗のお寺が建ち、今も存在していますが、1953(昭和28)年から1955(昭和30)年にかけて、専浄寺が経営する保育園(白鳩保育園)に通っていた私は、確かに自分が通いはじめたころの園の東側には池があったのを記憶しています。NPO法人「土と緑を守る会」が2009年8月に出した会報「つち・まち・みどり」の第36号に、私より少し年長の中村卓実さんという人が昭和27年ごろの九品仏池周辺のありさまを思い出しながら描いたという見取り図が載っていまして、そこに、九品仏池とともに北西側の小さな池も描き込まれています。

九品仏池の一生 | | 土とみどりを守る会 / Okusawa Garden

 

今、私の手許にある昭和30年測量の、国土地理院発行の1万分の1地図の「碑文谷」には、九品仏池だけがあって、四角い遊水地のほうはなくなっていますから、遊水地のほうは、私が保育園に通っていたあいだに埋められたようです。それと同じころの、九品仏池だけが残っていた時期の地図が、「自由が丘ブログ」の2013年11月4日の記事の中に出てきます。

http://jiyugaoka.areablog.jp/blog/1000001051/p10951372c.html

 

が、その遊水地だけではなく、九品仏池そのものも、地図の測量の直後の、たぶん昭和30年のうちぐらいに、埋められてしまったのです。

 

九品仏池が人工的に作られた前後の事情については、諸説ありますが、通説は、「水はけのよくない湿地帯だった付近一帯を乾いた固い土地にするために、浄真寺の北側で九品仏川の流れを拡幅して、水をそこに集め、掘った土を周辺に客土することで、水と乾いた土地とを分けたものだ」というものです。もっとも、上記の「自由が丘ブログ」では、水はけの問題とは別に、そこの土地がゴミ捨て場になっていたのを改善するために、池が掘られたのだとしていますが……。

 

いずれにせよ、昭和の5年から10年のあいだにこのへんの土地区画整理が行なわれ、池が出現すると同時に、碁盤の目のような道路も整備されたようです。九品仏川の上流が、大井町線の北側を線路に沿って西から東に流れる水路と尾山台・九品仏間から直角に折れて北進する水路へと人工化されたのも、この時のようです。

 

九品仏池は、当時住宅地として開発され始めた自由が丘に近い行楽地となり、貸しボートも浮かべられて、練馬区の石神井公園の石神井池などと同じような、

石神井公園 - Wikipedia

市民の憩いの場となりました。周辺の土地の改良と憩いの場づくりと、まさに一石二鳥だったわけです(石神井公園には「三宝寺池」と「石神井池」の二つの池がありますが、貸しボートの浮かべられている細長い「石神井池」のほうは人工池です)。

 

が、それから戦争をはさんでわずか20年あまりで、この池は消えてしまいます。私の持っている昭和30年測量、昭和34年発行の1万分の1地図が、この九品仏池の載っている最後の地図になってしまいました。地図が発行されたとき、池はもうなかったのです。

 

もとは公有地であったこの池とその周囲は、いつごろにか東急電鉄に売られて、会社の所有地になっていました。そして、その東急電鉄は、東横線のターミナル駅として乗降客が日増しに増えていた渋谷に、現在のヒカリエの前身である東急文化会館を建設し、昭和31年12月1日にオープンにこぎつけたと、記録に残っています。戦前から開店していた東横デパートに加えて、この施設を造ることで、さらなる集客効果をねらったのです。

 

その建物を建てるにあたって、地下を掘った残土の捨て場所に選ばれたのが九品仏池だったということです。したがって、少なくとも昭和31年の春ぐらいまでには、九品仏池は完全に埋め立てられて、姿を消していたということになります。そしてその跡地は宅地として分譲され、今は小割りにされた私有地へと変貌していますが、売ったのは東急電鉄の関連会社である東急不動産でしょう。

 

宅地の造成と東急文化会館での客寄せと、一石二鳥だと、当時の関係者は考えたのでしょうが、いかにも昭和30年ごろらしいものの考え方です。

 

長さ250メートル、幅数十メートルの池を埋めて、わずか百軒ばかりの家のための宅地を造成したからといって、なにほどの経済効果がありましょう。その程度の居住スペースなら、周辺住宅地に三階建てを許容する程度の措置で、十分に生み出すことができます。事実、産業能率大学から続く南斜面は日当たりがよいので、三階建てを許容しても背後の日照をさほど妨げません。それにひきかえ、せっかく市民の憩いの場となっていた九品仏池を潰して、公共スペースのない住宅だけの街を造ってしまうことによる環境的損失のほうがはるかに大です。

 

しかも、九品仏池のすぐ南は浄真寺の墓地で、周囲より土地が高まっていますから、池の跡地を宅地として分譲すれば、分譲地の南の端あたりの土地では、家のすぐ前が南上がりに盛り上がっていて、うっとうしい感じになってしまいます。

 

東急文化会館は当時としては画期的施設で、それなりの経済効果も生まれたでしょうが、それと合わせて「一石二鳥」と呼ぶには、この宅地開発計画のほうはあまりにもお粗末です。

 

実際、この造成地は、現在ながめても――住んでいる人には申し訳ないですけれども――お世辞にも立派な造成地とは言えません。百軒程度の低層住宅を、軒と軒が接するぐらいの過密さで、無理して詰め込んだといった感じであり、同じだけの居住スペースを確保するためならば、もっとすっきりした計画のしようがいくらでもあっただろうと思えてなりません。

 

それでいて、自由が丘に近いという交通の便から、今となっては地価は非常に高いでしょうから、今あらためて低層住宅用に売買するとなれば、1単位30坪程度の小さな面積で取り引きしなければだれも手が出ないということで、持ち主の世代交代につれて、取り引きされる単位面積は小さくなる一方でしょう。家を建てようと思えば、必然的に軒と軒がひしめきあうような建て方にならざるをえないでしょう。

 

ここがこんな造成地にならず、先人が掘って造った池をあくまで生かす線で、公園としてさらなる整備をされていれば、環境資源的価値としては、九品仏浄真寺の境内が1.5倍ぐらいに広がったのと同じような効果があって、周辺住民の生活快適度への貢献は、まことに大なるものがあったであろうと、悔やまれてなりません。

 

池の西岸の空き地だったところに、一部だけ宅地にせずに「ねこじゃらし公園」として残された土地がありますが、「これじゃあ、申し訳に過ぎないなあ」と、見ていて悲しくなります。

ねこじゃらし公園 - Yahoo!マップ

 

当時もし、大局的視野に立った都市計画のもとに開発を主導できる主体があったなら、一私企業の利害関心に振り回されたこんな不見識な開発はなされなかったでしょう。

 

池を掘ったときの「一石二鳥」は正解でしたが、池を埋めたときの「一石二鳥」は、とんだ見当違いだったと、私は思います。

 

 

 

(2024年6月5日追記)

九品仏池に言及しているブログ記事を遅まきながらひとつみつけましたので、下にリンクします。

九品仏池 : 「ネコも歩けば・・・(酔中日記)」 (exblog.jp)