「幸せになりたいって感覚がわからない」
「私は不幸だって感覚もわからない」 って記事を書いてきて、、、


最後に「それも!?!?」って感じなんですが、




幸せ、って感覚も、わからない かも。



・・・あぁ、言っちゃった。



「幸せ」って表現することにどうしようもない違和感があるんです。
(もうどうしようって感じだ、自分でも。笑)





そもそも、幸せ、って、私、心からは、言えない。
言うの、違和感。・・・なの。ほんとは。
(渾身の告白)






たしかにね、
うれしい、とか
満たされた、って感覚を、感じることはありますよ。



で、たしかにそれは「幸せだなぁ」って感覚では、あるだろうなと思うんです。
その瞬間を言葉で表現するとするなら、
幸せ、が一番近いかもしれないとは、思うんです。



実際にね、それを「しあわせだなぁ」と言って表現するときもあるんです。
特に誰かと一緒にいるときなんかは、
そうしたほうが、その喜びを共有できたりもするし。



ふと考えてみたときに、
「あ、今って幸せだよなぁ」とかも、思ってみたりはするんです。
「あ、そういえば意識してなかったけど風が吹いてるなぁ」って感じに近いけど。
(いや「あ、そういえば頭に髪の毛生えてたわ」くらいかも。笑)




でも、実は、ちょっぴり違和感感じたりするんですよね。





自己啓発とか、スピリチュアルでもよくある、
「幸せだと思う瞬間」「感謝を感じることを書きましょう」っていうのも、
あんまり得意じゃないんです。





なんかね、



幸せを、その瞬間だけのものにしてしまうようで。



幸せって言葉は、
その「前の状態」と比べてうれしかった、と感じたときに使ったりするでしょう?


そうして、過去に、未来に、
幸せじゃない瞬間をつくってしまうのが、どうしても違和感なんです。





それってつまり当たり前が幸せってことでしょ、
そんじゃ、いつも幸せ、って言えばいいじゃん、
と思うかもですが(笑)






幸せ、って言葉が、むしろ邪魔だとすら思ってしまうことがあるんです。



幸せ、って言ったとき、

そこにある、あらゆるもの、
「うれしい」「たのしい」からこぼれてしまう感覚を、
取りこぼしてしまうのが、とてつもなくもったいなく思えて。




「幸せ」と感じてるときって、
「幸せ」にフォーカスする瞬間なんです。
「幸せの感覚」を、拾うような。



でも私は、
ただ、その瞬間の、自分の中のすべての感覚の中に、漂っていたい。





感覚って、言葉じゃ表せない広がりがあって、
「幸せ」と表現したくなるような瞬間にさえ、
幸せ、楽しい、うれしい、気持ちいい、からも、
はみ出してしまうものを感じていて。


虹の赤色の先に赤外線、紫色の先に紫外線があり、それが見えないように
私たちの聞こえない周波数の音と言うものがあって、でも存在しているように




見えるもの、感じているものの先に、まだ広がっているものというのが、あるというか。
捉えようとした瞬間に逃れていくなにかが、あるのがわかるというか。




そういう意味で、言葉というのはとても「雑」なんだと思います。
一部だけになってしまうから・・・








んー。。。






っていうか、もっとそもそもなことを言ってしまうと、




そもそも、
「うれしい」という瞬間だけを取り上げようとも思わないというか。




幸せを「幸せ」として特別取り上げてしまうことに、
意味を感じられなくて。



何のためにそんなことしなきゃなんないの?って思っちゃうという、
どーしよーもなく厄介な性質を持ってるんですよねー( ̄ー ̄;



うれしい瞬間も、
悲しいの瞬間も、


私にとってはどちらも「ただ過ぎ去っていく風のようなもの」で、


それだけだったりするんです。
それでいいやと思ってるんです。



うれしいとすら、言わなくていいやと思ったりするんです。
うれしい、だから、何?って感じちゃうんです。


悲しいより「良いもの」として「うれしい」を感じるのがね、
なんか違和感だったりしてて。


うれしい感覚のほうが身体は心地良いけどね。
痛いのは逃げたくなったりするけどね。
そりゃあね、肉体を持っている身としてはあるけどね。


でもやっぱり、私にとっては、たいして変わらないかもと思えるんです。





楽しいも、
嫌だな、も、
痛いな、も、



「そうなんだなぁ」



それだけだったりしてて。




うれしいとか悲しいとか分けるのそもそもめんどくさい。


っていう、「そこ!?」ってとこに行っちゃうんですが

(別の記事(→リンクこちら )でも似たようなこと書いた)








いいじゃんどっちでもー!!


・・・って、ね。笑




もう、感情に名前をつけるのすら、なんかめんどくさいんですよ( ̄▽ ̄)



たとえばね、

「あ、左足踏み出しましたー!」

「次は右足行きますー!」

「あ、思ったよりひざが上がってません、こけますよー!」

「あ、大丈夫だった」

「っていうかこの靴私の足に合わないんじゃね?」





って、誰かがいちいち実況中継しててせわしない感じ?
散歩に集中したいよ、うるさいわって感じです。
めんどう。とってもめんどう。





幸せでも不幸でもどっちでもいいじゃん。
意識するのめんどくさいし、いいや。


なんです。





それに、もうその瞬間に終わってるしさ。
言葉にした瞬間にはすでに過ぎ去っていて、
今は違うものが流れている。


その「今」を感じるのに、言葉って余計なものだと感じちゃうんですよ。
ある瞬間にとどまろうとするのは、とても違和感がある。








繊細なのか、不器用なのか。笑



幸せという言葉にすら束縛されたくない、
頑固者、ということにしておいてください(笑)




めんどくさがりの、面倒くさい人間(宇宙人?)です(・ε・`)

前回(こちら )「幸せになりたい」って感覚、ないかも。と書きましたが。



「不幸」って感覚も、わからないです。






「不幸」とはなんぞや。
どういう感覚なんだろうか。




って感じです。
わかんない。。。





私はさびしい、
すごく悲しい、
今、苦しい。と感じることはあるけれど、


それを「私は不幸だ」と結びつけるのも、
よくわからんのです。







お金がない、
認めてもらえない、
大切な人を失った、、、あたりが、
不幸、と、くっつくのかな?
(とか書くあたり、わかってない。笑)




自分が「不幸だ」と感じている感覚って、
どういうものなんだろう、と、
本当にわかんないのです。

(これも、理解しようとしても無理かも^^;)








ただ、見てて




世界は、不公平だ。
世界は、私を大切にしてくれない。



そう叫んでるっぽいとは感じたり。



自分じゃどうにもできないことに対する苛立ちなのかな。




でも、それって不幸なの?
だから不幸になるの?



それを「私は不幸だ」と意味づけすることでどんな利点があるの????






・・・言いたくなるのさ。




不幸を選んでるの、自分じゃん・・・!?







だって「私は不幸なんだ」と言って、
「不幸な世界」に閉じこもっていってしまうんだもん。
どんどん、どんどん・・・。




そのせいで、幸せじゃなくなってるんじゃ、ないの???








意味あるの????








・・・いや無意味すぎない???????






がちょーん(゜□゜)






そもそも、
「不幸だ」って口にするとき、
わざわざ「自分は不幸である」の事例を集めてるように見えるのです。





そんなに不幸って証明して何になるんだろ。。。



って、思っちゃうのです。
(いや、ほんとに「不幸アピール」に見える)








いや、実はどっちも不思議なんだよね。




不思議なんですよ、





幸せは幸せでアピールしてたり、
不幸は不幸でアピールしてたり、





なぜ???って思います。






自分はこんなもの持ってますよ!
こんなにできますよ!



と、



自分はこんなに持ってないですよ!
こんなにできないですよ!


と。



正確に言うと、


「私は、幸せ(と言えるはず)だ。でしょ?」
「私は、不幸(と言えるはず)だ。でしょ?」


って、言っているように感じるのだけれども、さ。








・・・認めてほしいの??そうなの??

(何のために??)










・・・っていうか、どっちでも、よくない????




だってそもそも、

幸せのイメージも、
不幸のイメージも、


自分には関係なくない????









こういう、「○○があるから幸せ」って、
どっちも「相手から見て」だよね。





なんとなく「幸せのイメージ」みたいのがあるらしくて、
それに当てはまってると幸せで
それから外れると不幸、みたいな。



勝ち組にいる人間と負け組にいる人間と・・・?




他人の目に自分がどう映るかだけが重要で、
自分置いてけぼり?みたいな。
不毛どころか、無意味すぎない?みたいな。




それで一喜一憂しているようで、
わけわかんないのです。
(「?」が頭の中でスパークしますよ!)








大変そうだなぁ、人間。とは、思うよ。






底のほうに見えるのが、




無力感、 で。







そこにあるのは、

自分の人生を左右するのは世界で、
社会で、
周りの人で、
お金で、
「運」で、



自分にはどうしようもないのだというあきらめだという気がするんです。





よくある幸せな人の中にも、
よくある不幸な人の中にも、




同じような恐れがあるように見えるのです。







世界の被害者であるうちは、
翻弄され続けるのにね。


自分の価値を人に決めてもらおうとすることほど、
無意味なことも、ないのにね。。。














そんな、うつりかわりやすいもの・・・・




幸せも、不幸もね・・・・

私・・・「幸せになりたい」って思ったこと、ないかも。



・・・と。ふと気づいて、衝撃。笑






あれーーー??




幸せになりたいって、思うものなの??
どうなの??




あれって本当?
それとも、「今日もいい天気ですね」みたいな、社交辞令?
↑おそらくほんとにわかってないのです。笑



よく言われるように、
普通の人って「幸せになりたい」もんなの??



幸せになりたくて、
お金がほしいと思ったり、
恋人がほしいと思ったり、
家がほしいと思ったり、

・・・するもんなの???




よく、
お金があれば幸せになれると思うから人はお金をほしがるが、
だからといって幸せになれるのではない、真の幸せは・・・
・・・なんて文面に出会うけど。





「・・はぁ、そうなんですか」

と、私は思っていたようだ。
(右から左へ)



つまりは素通りしてきたようです。笑



あのー・・・






「幸せになる」って、なんですか??
(でも多分答えを聞いてもわからない。笑)




なんでみんな幸せになりたいんだろう?
何かが叶ったら「幸せになる」って感覚があるものなの?
↑だからほんとにわかってないんですってば



それとも、
あれがほしい、これがほしい、っていう願望がある状態のことを
「幸せになりたい」って表現するだけ??
↑この表現、私がさっぱりわかってないことの暴露であるような(笑)




だってー漠然としすぎじゃんーーー









・・・あ。




なんかまるで、


・・・あれだね。







幸せになりたいって、


現実逃避願望であるような。





「幸せになりたい」って、


ただ、





ここじゃないどこかに行きたい






ってだけだったりして????





「それ(幸せ)がどういう状態なのかわからないけど、
今の状態は嫌だ。
なんとかしたい。これじゃない何かがいい」



っていう気持ち=幸せになりたい


だったりするんじゃない???




だって、幸せがちゃんと「在って」

それが「何か」

「わかって」いれば、


もうそうなっててもおかしくないよね????







わかってないから






幸せになりたい




って、漠然と思うんだよね????





これじゃない何かがいいけど、
それが何かわからない。



から、



これは、私にとって「幸せ」なのだろうか?

なんて、悩むんだろうなぁ。






なんか・・・







出口のない迷路じゃん!!!






幸せ迷路だ!!にげろー(((((( ;゚Д゚)))))





「私は不幸だ」の世界にはまっているのも、

出口のない迷路というか、
それは底なし沼にはまるものなんじゃないかと思いますが、



幸せになりたい、も同じくらいに不毛な感じがしてきたよ。。。





あ、一応言っておきますと、
「幸せになっちゃいけない」って思い込みはありました。



・・ていうか、


幸せそうに楽しくしている姿を人に見せてはいけない、
表現してはいけない、っていう、、、罪悪感?
のことね。






なんなんでしょう、地球って。




みんな「幸せになりたい」って思っていて、
「こうなったら幸せになれますよ」っていう宣伝にあふれているのに、
幸せになるのがイイコト、みたいに伝えてるのに、



あんまり幸せそうにしてると調子乗ってるとか
浮かれてんじゃないよって非難されるとか。。。
(妬みって言うのかそういうの)






そりゃ、混乱するでしょう。



幸せになりたいんだか、
幸せになるのがこわいだか、



わからなくもなるでしょう。




そもそも幸せがなんなんだか、
あんまりわかってないと来ちゃ。





・・・どうしようも、ないわな( ̄∇ ̄)








やめよーよ・・・そういうわけわかんないことやめよーよ(iДi)

もっと有意義なことに自分の寿命をつかおうよーーー






出口のない迷路は疲れるだけで意味がないよ。



迷うのが楽しいのならいいけれど、


楽しいというより、どうしたらいいのかわからないだけだよね、みんな。






ああそうね。。。


「幸せになりたい」って夢を見ている瞬間が、
多分一番楽しいのでしょうがっ、、、






落ち着け人間ーーー!!!





そもそも、「幸せになりたい」の空想の中にあるイメージは、

自分の体験したことのないモノ、でしょ。
つまり、それを本当に体験したとき、
自分がそれを心地よいと感じるのかさえ、
確かではないんだ。




それに人生かけるなんて、
相当なギャンブラーだよなぁ、人間。





と、どうも微妙な気分になりますです。







・・・以上、幸せも不幸も、どっちだっていいやーと思う、
宇宙人の考察でした。






そういやあんまり気にしたことないかも。




多分、こだわるの、疲れるせい。笑






幸せになろうと「する」のは疲れるじゃんね。

ただのめんどくさがりかな、ははは。

どうしてそんなに、
自分の心がドロドロしてるんだと思うんだろう。

 

見せたくないと思うんだろう。
隠さないと人が逃げていくと思うんだろう。

 

 

 
熟成させて腐らせてるから、
おどろおどろしいものになってるだけだよ。笑

 

 

死にたいという絶望でさえ、
殺したいという衝動でさえ、
妬みでさえ、憎しみでさえ、

 

 

 
分解して分解して分解して行った先には、

 

 

 

「さみしかった。」
「かなしかった。」
「わかってほしかった。」
「こわかった。」
「はずかしかった。」
「すごいといってほしかった。」
「あいされたかった。」

 

 

いとおしくなるほどに、

 

 

子どもっぽくて、
繊細で、

 

 
笑ってしまうほどの、

 

 

 


小さなかけ違いをしているだけなんだ。

 

 

表面だけを相手にぶつけてしまうと、
それはただの爆弾だけれど。笑
(自分も痛いね。笑)

 

 

まぁそれで、人間は人だって殺しちゃうんだけどね。

 

 

 

 

心の闇、っていうものは、

 

 

 

見つめてみれば、

 

時間をかけてこじらせてしまった、
ただの痛みがあっただけなのだと、わかるんだよ。

 

 

 


怖がるほどに、怖くない。

 

 


 

  
強くなくっていいんだよ。



どうせ、そんなに強くないって、見抜かれちゃうんだから、さ。

前回 の続きです。


私にとっては、
ただただお互いに正直であること、
オープンであることが、
愛の表現。


相手にとっては、
「大切にすること」「傷つけないこと」が、
愛の表現。


するとねー、


どこまでもすれ違っていくんだよー( ̄▽ ̄)




お互いにかけ離れていくの。
お互いに届かないんだ。

あっぱれなまでに!笑





相手が私を大切にしようと気遣ったり、
喜ばせようとしてくれるたびに、
相手がどこかで無理をしているのを感じて私は悲しくなり、

信頼されていないんだとショックを受けるけれど、


私の愛情表現も、
相手に届かないことがよくあります。





「あなたがどれだけ正直であっても、
私は受け入れます」





そう伝えることで相手を大切だと伝えたいのに、



相手にとってはそれ(正直であること)が一番「したくないこと」で、
「痛み」なんだよね。
大切にされてないと感じること。



それをすると、相手は傷つくの。
心をこじ開けられると感じるみたい。
傷つけられたと感じるみたい。




「言ってくれていいんだよ。」




それも、
「あなたは本音を言ってくれてない!言えてない!」

責められているように感じるみたい。



本音を言えない、だめな人間だと、
弱い人間だと、
否定されている気になるみたい。






どんどん相手が頑なになっていく。
閉じていくのが見える。


(かーなしーーー・・・・・・・)





私、あなたを否定したいわけじゃない。

肯定したいんですけどーーーーー!!!!!








なんでーーーーー!!!!???


(さけびたくもなるわ!笑)






相手は、そしてさらに、頑張ろうとします。
無理している様子を見せないようにしたりして。

むしろもっと見せなくなって、
どんどん嘘をついていく。







だから・・・





・・・ちげーわ!!!!









弱くていいのに。


弱いままで、一緒にいてくれたらいいのに。
いい人のあなたといたいわけじゃなくて、
ただのあなたといたいのに。









私にとって愛するとは、
無防備でいることなんだと、思います。





そのときの自分のままで居て、
そのままの自分で、存在すること。






ただ、その人の前で自分が正直でありたいだけなんです。
伝えたいだけ。
表現することで、相手への信頼を示したいだけ。




すべてを見せるよ、見ていいよ。

はい、どーぞ。って。





押し付けることは、できないけれど、
私はずっと、思っているよ。





自分にオープンになること。
相手にもオープンであること。



「オープンでいることが、愛の表現」になったとき、

開かれていくものは、きっと、とても多いはずだって。









伝え合うことが、できるようになるから。







気遣いって、一方通行なんだ。









コミュニケーションは、伝え合うということ。

そして伝え合うということは、正直であること。




弱いままで、立って。



じゃー、どうしたらいい???
どうしていこう?





それを自分の頭だけで考えるんじゃなくて、

一緒に考えればいいだけなんだよ。



二人でいるのに一人でいようとしないで、
二人いるんだから、二人でやればいい。












オープンでいることは、
ぜんぜん、怖くないことなんだよ。






傷ついたことを傷ついたと伝えないから、
溝ができていく。
(だって、相手には傷つけたつもりなんかなくて、
ほとんどはただの誤解だから)



悲しかったことを悲しかったと伝えないから、
相手はあなたの悲しいことをし続ける。
(もしかしたら、あなたがそれを喜ぶだろうと思っているから、
しているだけかもしれない)



ほしいものをほしいと伝えないから、
相手はあなたが何を喜ぶのかがわからない。
(遠慮しているだけだったりするしね)





時間はかかるよ。
手間もかかるよ。

特に、言葉でのコミュニケーションをするときには。





それでも、
それだけのものをかけるだけ、大切だと思う人といるのなら。




やりたいよね。
やれたらいいよね。






鎧を身に着けたままではできないこと。
隠していたんじゃできないこと。




そのままのあなたでも。









それでもあなたを愛していると、








それこそが、


本当に伝えたいことだから。






本当のあなたを愛させて。



見せてほしい。







どんなにそれを愛したくても、



あなたが見せてくれるまで、




それでも愛しているんだと、

伝えられないんだから!