言葉としてフツーに存在しているものが、

自分の感覚にないと戸惑うのですよ。。。






「好き嫌い」の「嫌い」って、

私はあんまりないのです。







「好き」はなんとなくわかるの。




私にとっては「なんとなく好き」ってのが一番正確な言い方かな(笑)


自分の部屋とか、よく聴いている音楽にはそれがあふれているよー


好きな写真とかはあるし、

好きな素材とか、

よく食べるものとか、

文章書くのとかも「好き」に近いし。






しっくりくる、とか心地よい、とか、安心する、とか。

私の「好き」はそんな感じ。


 








でも、「好き」とセットになっている「嫌い」という感覚は、

正直、わからないんだよね。






「もう○○なんてきらいっ」みたいな、

好きな人に対して「わかってくれない、もういやっ」とか

「しなきゃいけない、けどしたくないっ」みたいな

「嫌い」の感覚はかろうじて(?)あるのだけど、








嫌いな人、とか

嫌いな場所、とか、

嫌いなもの、とか、




あんまり思い浮かばないんですよ。








嫌いってほどの、(私からすると)強烈な感覚が、なかなか生まれないんです。








だから「嫌いなもの、人」について話をしている人の様子が、

理解できなくて怖かったりします。

大きな「拒絶感」だけ伝わってくるから。

自分に向けられていなくても、ぎょっとしたりします。

激しいからさ(笑)






こういうとこが嫌い、って嫌そうな顔で話しているのを聞くと、

「その程度のことで嫌いになったりするもんなんだ!?!?」ってことにも、

めちゃくちゃびっくりしてました。






昔はそれを「私は鈍いのかな」と思ってた。


繊細じゃないから、そういう感覚がわからないんだと。

↑そういえば不思議な思考回路かもね(笑)








たとえば、人で言うと、


私、どんな人とも特にどうということなく付き合っちゃいます。

別にそれぞれの人にあまり違いは感じないものだから普通に話します。




なんだけど、そのあとで他の人が「あの人付き合いにくいよね」「あの人嫌だよね」とか言い合っているのを聞いて驚くんです。




「え!?別に何も感じなかったよ!?そんなの、わかんなかった!」ってびっくりするのよ(笑)




そういう体験が多くて。


だから、私は人を見る目がないんだろうかと^^;






最近になって、

「そういや私、嫌いという感覚がそもそもないかも」と気づいたのですが。














嫌いっていうのが生まれないのは、、、












なんかね、

ただ無関心なんです。








好きと嫌い、じゃなくて、

私の場合は「なんとなく好き、と、それ以外」なんです。








       その他

 

その他 (なんとなく好き) その他

       

       その他








↑私の世界はこんな感じ。

うわ、頭悪そう(笑)






「自分の好みではない」というのはその他大勢、って感じ。

だから特に意識しない、というか。


こう言っちゃうとアレですが、どうでもいいんです(笑)










一応、出会ったら避けたい人や物はあるんだよ。

「離れていたい」「離れていよう」「今はいらない」という感覚。

不快感としての「嫌」はなんとなくある。




体の反応として快・不快の感覚はある、という感じかなぁ。






でも、不快なものって、

避ければいいだけなんだよ。


避ける、って行動を選べばいいだけ。

そこに「嫌い」って感覚を生まなくてもいいものなの。




そんなものがあるんだなぁ。そうなんだなぁ。スィー・・・ッ(立ち去る)






で、終わっちゃうんだよね。








だからどうして「嫌いな人」を放っておくどころか

注目してこだわるのかと不思議です!








(芸能人とかにしても)「嫌だよねー」とかってのが、

本当に「わかんなかった」のです。








嫌、とか嫌い、って、どういうことだろう、

どういう感覚なんだろう、と。

(私はどうでもいいじゃん、って思っちゃう。笑)








考え続けても、

やっぱり「感じる」のとは、違うから。

どうしても届かないもの、な感じなのです。














・・・そう、きっと「届きたかった」んです(笑)






私ってば、

「嫌いなもの」があるのは、

どこかでうらやましかったのかもしれないんだわ。








こんなところまで「人と一緒でいたかった」と思っていたのかと、

今は笑えてきますが^^;










好き、とか嫌い、とか、

そうして一喜一憂できる世界は、

まぶしくも見えたのかも。

私は、あまり感情もないしね。










まっ、そんなに嫌いなものある世界ってめんどくさそーだな!

とも思ってたけどね!(笑)










地球のみなさま、ご苦労様ですっ!( ̄▽ ̄;)


前回の「五感のつくる、自分だけの世界
」の続きです。




感覚は、人によって感じ方が違う。








その「特有の反応パターンや感じ方」ってのが、


私が私であることなんだなぁ、

・・・と、思ったことがあって。








私の場合は、ですけれど、




この「感覚(あるものに対する、特定の反応)」は、

自分で選んできた記憶があるのです。








「佐々木明里」として、今、地球で生きている存在、、、








この入れ物を選んだとき(生まれる前の話になるのかな)、


選ぶときの感覚って、カタログから選ぶみたいな感じだったのです。








どんなものを好きだと感じるか、

心地よいと感じるか。

何をしっくりくると感じるか、違和感を感じるか。

どこに興味を持つか、どんな感情の傾向があるか、、、

何をどの程度大切にするか、、、






「こう感覚する、佐々木明里(という、入れ物)」を、選んできた。




(入れ物という言い方したけど、


肉体、というよりかは「パーソナリティ」とでもいうのかなぁ)








ゲームで言うなら、

「装備を選ぶ」って感じ。








「よし、これにしようっ」っていう。











これによって、

ある程度人生の方向が決まるのを知っていたから。












装備、ということで例えを続けると、




雨の日に「カッパ」を着て外に出たか、

傘で外に出たか、

穴の開いた靴で外に出たか(ぐちょぐちょになる笑)


で、どんな体験をするかが違いますよね。




選んだ結果によって、

経験する内容が、決まってくるんです。




あとは主人公の設定を選ぶのにも似てるよね~( ̄▽ ̄)








自分の「体験したい内容」に合わせて選ぶのね。

その人生で、どんなことをやりたいか。










感覚って、多分、

人生に対してかなり重要な役割を持っていて。






たとえば、五感の好き嫌いに基づいて行動している部分も、

とても多いですよね。




さらに五感に加え、

思考や感情、価値観や好みなんか(内側の感覚)も含めると、

仕事、人間関係、生活の在り方、生き方、文の書き方も・・・




かなりの部分がそこに影響されることになる。

人生の方向性も、限定されてくる。








だから、魂の「(地球で)やりたいこと」を、

一番達成しやすいような「入れ物」を、

選んでくるのかもしれません。






というか、私の場合はそうでした。ってことですが。







私は私のデータしかないからほかの人のことは言えないけれど、、、










自分特有の「感覚」というのは




「ツール」なんだ、とは、


言えるんだと思うのです。


















肉体の感覚(五感)、

内側の感覚(感じ方の特定の傾向)。








魂のやりたいことに向かうための、

それをやりきるための「ツール」。








感覚は、

方位磁針のようなもの。。




















だとしたら、




























それを「使って」





なにをする?














ってこと、だね。

肉体の感覚は、不思議でたまらないと思います。



肉体に慣れないせいなのか、
もしかしたら人より、繊細に感じようとしているのかもしれないです。


というか、興味がそこにあるから、
小さなものでも拾いやすいのかもしれません。





肉体って、
常に何かを感じ続けていて。




生きている限り、
何も感じていないときなんて、ないんです。




目を閉じたからって、
「見えなくなる」ワケではないしね。


あれってまぶたの裏を「見てる」ってことだから。


明るいとことかだと、血管通ってるせいか赤っぽく見えるよね~
・・・ってことは実は目玉って開きっぱなしなのかとなにかドキドキする(笑)

本当に「見えなくなる」のは意識が落ちたときくらいなんじゃないかしら。





耳もお休みなしだよね。

というか、耳は「常時受け取ります!」って形してるよね(笑)
オープンな形というか、パラボラアンテナみたいに開いてるもんね!


いろんな音をいろんな方向から拾うための器官。

それが意識にあがるかは別として、音そのものは常に拾っていて。


大きな音はしてない時でも完璧な無音ってない。

「シーン」みたいな音を聴いてたり。

よく耳をすませると、冷蔵庫の動く音とか、お風呂場の換気扇の音とかしてるよね。



驚くのは「感じ続けている」は、

五感すべてってことなんだ。



どれもなんだよ。



嗅覚・・・匂いも、感じないときってないでしょう?


多分まったくの無臭ってまずないんだろうね。
他人の部屋に入った時とか、玄関から外に出た瞬間とか、違う匂いがする、って感じるじゃない?
匂いそのものは感じ続けているのよね。そこにいると慣れて意識しなくなってしまうだけで。


味覚も、自分の口の中の味??をずっと感じているわけだし(笑)
←なんか微妙な表現。味・・・笑



触覚だって、空気の温度や、服の感触は、起きている時間中感じ続けてる。


肉体の表面全て…くまなく、何かに触れてる。

空気にすら触れていないとき・・・とか考えると、無い、もんね。




あ、直感みたいな第六感も、、働き続けてると言えるかな?(笑)



人間はまるで、大きな感覚器官みたい。




人間は、忙しいよね(笑)


今この一瞬に感じていることの、
情報量ってものすごいんだよ!



外側だけじゃない。

内側でも感じ続けているしね。

自分の内側を感じることは何感といえば良いのだろう(笑)
感情や、言葉にならない感覚や、思考や……何かしら感じ続けているよね。





そして、感覚の面白いところは、
人によって受け取り方が違うこと。




そもそもの感度だったり、
好みだったり。


同じものを見ても、聴いても、触っても、、、
それをどう感じるかって、
本当に70億通りなワケよ。





自分だけの世界を、感じているワケよ。






肉体があり、感覚があるからこそ、
という気がしない?




今回、ちょっと続きます♪

違和感を感じていて、
なじめないもののひとつが「学校」だったのね。


私は「不登校」という形をとった。
(登校・不登校を半年サイクルくらいで繰り返して、小中学校の半分くらいは家で過ごした)


不登校になった「直接のきっかけ」というものはないんだ。
(だから「なんでだろう?」と何度も考えたんだけど)



結局ね、

「合わなかった」
「私には必要なかった」
んだと思うよ。今となっては。





私にとってはとても「居づらい」「居たくない」場所だったようだ。


身体全体で「NO!」と、言っていたようなのだ。





学校の空気が嫌だった、が、
当時の感覚をあらわすのに一番近いかもしれないなぁ。




人によって態度を変えたり、陰口を言うクラスメイト。
先生の前ではおとなしいのに、
授業が終わったら先生の悪口や授業の愚痴とか。


どうしてそんなことできるんだろう?って私はわからなかったんだ。




暗黙の了解も、、、居心地が悪かった。
それが教室の空気を緊張させていて、
苦しかった。





積極的に手を上げるとできる子ぶってる、ってウザがられるとか。


余計なことは言うな、面倒なことはするな、
目立つな、一緒にしろ、
調子に乗るな、立場(序列?)を考えろ、
グループ以外の子と仲良くするな、
嫌われてる子には近づくな、、、




無数にあるように見える、その無言の圧力。

不気味だったんだ。





学校はコミュニケーションを学ぶ場だと言うけど、

こんなコミュニケーションだったら学びたくない!

私にはそう思えたの。




学校の制度も行事も決まりも「形だけ」みたいのが多くて、
「何のためにやるの?」って疑問ばっかりだったな。


勉強も、学年が進むほどにただの「暗記」になっていって。


自分で考えて書けと言っているのに、
模範解答みたいなものが存在していて、
「期待される答え」を書かないとマルはもらえない。




「自分で考えちゃいけない」


そう言われているみたい。





でも、その中にいるとだんだん麻痺してくる。





このままじゃ流されちゃう!


ロボットになりたくない!!


そう感じ始めるころに行けなくなるんだけどね(笑)








今思い返してみて、
私にとって、「学校へ行ってよかったこと」って、ないんだよね。



・・・ないなぁ(笑)






学校への「違和感」から生まれる「なんでだろう?」を考え続けたこと、
学校へ行けない自分は、どう生きていこうと試行錯誤したこと、
学校へ行けないという劣等感を乗り越えることで得たもの、なんかはあるけれど、


学校へ行く、その体験そのものから学んだものは、
私の場合、なかったんだ。




もちろん、
学校へ行く経験のなかでたくさんのモノを得る人もいると思うよ。
多くの人はそうだよね。
部活に打ち込んだりしながら、達成感やできることを増やしていく楽しさに触れたり、
学校での友達との交流で、得がたい喜びを経験できた人もたくさんいるよね。




でも、私はそうじゃなかった。

私にとっては「行かなくてもいい」場所だった。



そういう子もいるんだよね。(I am そういう子。笑)







学校に行くことが、必要ない子どももいるよ。

そういう子にとって、
学校へ行くことは「ただの負荷」なんだよね。



それは、
乗り越えるべきもの、成長するための負荷ではなく、


ただの痛みで、必要ないものなんです。

いや、その子の心が死んでしまうよ。





あえて、言おうと思うけれども。







学校は、

自分の中の何かを殺して、
身体や心をすり減らしてまで
行く価値なんてないよ。







25になって思うけど、

学校へ行かない、という道は、
「別の道である」ということに過ぎないと、思う。


違う道であるだけ。




あのね、

他の世界なんていくらでもあるんだよ。



「学校」という「数ある場所のひとつ」に合わなかったからといって、
自分をダメだと思う必要なんてこれっぽっちもなかった。




自分の居心地のいい場所、
輝ける場所は必ずある。




世界をこれしかないと決めつけてしまうこと、
こんなもんだとあきらめてしまうこと、


それじゃ、可能性を狭めてしまうだけ。





選択肢は今の自分に見えないだけで、

見ようとしていないだけで、

たくさん存在しているよ。









世界は、

自分の想像を軽く超えるくらいには、

豊かなんだよ。







・・・・・・・・・・・・・・・・

そういえばこれも貼っておこう。

「新しい学校のカタチ」を考えてみた記事。FBシェア120件くらいになったやつ。

http://sasakiakari.net/column_fb/school.html



柴田 真奈美さんと5月に行った不登校お話会、CDにしました~!
真奈美さんは元不登校児の母として、
私は元不登校児として、
それぞれの体験を語ったお話会、後日録音約15分も含め、CD2枚組約2時間の内容です。

詳細はこちら↓↓↓

http://sasakiakari.net/sell/sell_voice_cd3.html

いきなりぶっちゃけてしまいますが。笑




そもそも男とか女って




めんどくせーーーー!!!!!!







と思うのですよ。





男、女、それで分けるのはね、
まぁ、生物的な分類としては、わかります。
それはわりとはっきりしてるとは思うし。





ただね、やっぱり。。







それだけでしょ????







って、思うのですよ。



私が言いたいのは、

「男とは」「女とは」なんて、

そもそもそれで語るの無理じゃね???ってことね。






だって、
だってだよ、

考えてみぃ。




単純にさ、今の地球に男(女)って、

35億人いるんだよ?









35億人をひとつの言葉で
くくろうとするの無理に決まってんじゃーーーーーん!!!









35億人同じ性質って語るのなんて、
そもそもアホなことだよ?





いや、35億人どころじゃないよ、
今まで地球上に存在した男性の数、女性の数となったら、
何百億、何千億人になるよ。



それを「男」「女」ひとつの言葉で説明しようとする?




無理じゃん?????



(血液型とか星座占いとかだと「そうやって分けるのはそもそも無理」とか言うのに、ここには誰も突っ込まないのはどうしてだ????(((゜д゜;))))




無理なことを無理くりやるのが地球って星だなぁとは思うのだけど。


それにしても、あまりにも無茶すぎやしないかぃ。



だってだってさ、


男とはこうであるべきだ、
女とはこういうもの、



なんて、
役割だったり、社会的な在り方まで決めようとするんだよ???
(男は仕事、女は家庭なんて典型だよね)







かーーーーーー!!!!





とね、叫びたく、なっちゃうんですよ。






百歩譲ってね、


「男性」「女性」の身体を持った存在に分けたとき、
脳の構造やらによる違いなんかも含めて、
ある程度の傾向はあるかもしれませんよ。



でも、


一人ひとりの人間にとってを考えたとき、
あまりにも「幅」が大きすぎるんじゃないかと思うわけです。



「男性的な性質(と言われるもの)」を強く持つ女性は、
内側の感覚だったり、感性だったりのそれは、
そこらの男性と「一緒」かもしれないよ?


「男(女)はこういう存在」と言ったとき、
例外もいくらでも存在するでしょう。
実は、論理として、そもそも成立してないんじゃないかと思うわけです。
そもそも破綻している論理を、信じ続けているだけじゃないかと思うんです。




そりゃあね、

ある程度「男とは」「女とは」の部分に、
自分が当てはまっている部分も、あるかもしれないよ。





でも、実は、
当てはまっているように見えるのは、

そうじゃない部分、そこからはみ出した部分を無視しているからかもしれないんだ。


すべての性質は、
もともと一人の人間の中にあるしね。







はみ出した部分を無視する。

これは、生きていく中で、


自分を自分の性別に当てはめようとしていくから。



書類なんかで何度、自分の性別に○をつけてきただろう。

私は「女(男)だ」
それを、何度も繰り返し定着させてきたんだよ。



それと一緒に、
「女(男)としての振る舞い」とかも、身につけていく。




子どもの頃、言葉遣いとか直されたりさ。
(「僕」とか「じゃねーよ」って使いたくなってた時期あったなぁ)


見る漫画とか、服とか、遊びとか、、、
何気ないところで、

「女(男)だったら、こういうものを選ぶのだ」って、学んできてたりする。

こう感じる「べき」なんだ、とかもね、吸収してきたりしてるんだよ。




あまりにも学習してきた部分が大きすぎて、

「男性の本質はこう」とか「女性の本質はこう」なんて、
本来は検証すら、難しくなってしまってるんじゃないかと思うんです。




身につけてきた仮面が多すぎて、
「本質」なんて、見えなくなっているんだと思うんです。



どれだけ


「私は男(女)だ」に、

縛られているだろう??


だけど、


もともと、そこにはまるのなんて、無理だったんじゃないか??






いや、無理でしょ。
はじめから無理があるでしょう。




必ずはみ出る部分があるんです。






今地球上にいる人間にも、
70億通りの魂のカタチと在り方があるんです。




分けるなんて、やっぱり無理じゃね?






小さな枠にはまろうとするから、
窮屈になるんだよ。




もともと、
男も、女も、超えた存在なんだよ。









わたし、は、ただ、




「わたし」という存在に、すぎないんだ。