違和感を感じていて、
なじめないもののひとつが「学校」だったのね。
私は「不登校」という形をとった。
(登校・不登校を半年サイクルくらいで繰り返して、小中学校の半分くらいは家で過ごした)
不登校になった「直接のきっかけ」というものはないんだ。
(だから「なんでだろう?」と何度も考えたんだけど)
結局ね、
「合わなかった」
「私には必要なかった」んだと思うよ。今となっては。
私にとってはとても「居づらい」「居たくない」場所だったようだ。
身体全体で「NO!」と、言っていたようなのだ。
学校の空気が嫌だった、が、
当時の感覚をあらわすのに一番近いかもしれないなぁ。
人によって態度を変えたり、陰口を言うクラスメイト。
先生の前ではおとなしいのに、
授業が終わったら先生の悪口や授業の愚痴とか。
どうしてそんなことできるんだろう?って私はわからなかったんだ。
暗黙の了解も、、、居心地が悪かった。
それが教室の空気を緊張させていて、
苦しかった。
積極的に手を上げるとできる子ぶってる、ってウザがられるとか。
余計なことは言うな、面倒なことはするな、
目立つな、一緒にしろ、
調子に乗るな、立場(序列?)を考えろ、
グループ以外の子と仲良くするな、
嫌われてる子には近づくな、、、
無数にあるように見える、その無言の圧力。
不気味だったんだ。
学校はコミュニケーションを学ぶ場だと言うけど、
こんなコミュニケーションだったら学びたくない!
私にはそう思えたの。
学校の制度も行事も決まりも「形だけ」みたいのが多くて、
「何のためにやるの?」って疑問ばっかりだったな。
勉強も、学年が進むほどにただの「暗記」になっていって。
自分で考えて書けと言っているのに、
模範解答みたいなものが存在していて、
「期待される答え」を書かないとマルはもらえない。
「自分で考えちゃいけない」
そう言われているみたい。
でも、その中にいるとだんだん麻痺してくる。
このままじゃ流されちゃう!
ロボットになりたくない!!
そう感じ始めるころに行けなくなるんだけどね(笑)
今思い返してみて、
私にとって、「学校へ行ってよかったこと」って、ないんだよね。
・・・ないなぁ(笑)
学校への「違和感」から生まれる「なんでだろう?」を考え続けたこと、
学校へ行けない自分は、どう生きていこうと試行錯誤したこと、
学校へ行けないという劣等感を乗り越えることで得たもの、なんかはあるけれど、
学校へ行く、その体験そのものから学んだものは、
私の場合、なかったんだ。
もちろん、
学校へ行く経験のなかでたくさんのモノを得る人もいると思うよ。
多くの人はそうだよね。
部活に打ち込んだりしながら、達成感やできることを増やしていく楽しさに触れたり、
学校での友達との交流で、得がたい喜びを経験できた人もたくさんいるよね。
でも、私はそうじゃなかった。
私にとっては「行かなくてもいい」場所だった。
そういう子もいるんだよね。(I am そういう子。笑)
学校に行くことが、必要ない子どももいるよ。
そういう子にとって、
学校へ行くことは「ただの負荷」なんだよね。
それは、
乗り越えるべきもの、成長するための負荷ではなく、
ただの痛みで、必要ないものなんです。
いや、その子の心が死んでしまうよ。
あえて、言おうと思うけれども。
学校は、
自分の中の何かを殺して、
身体や心をすり減らしてまで
行く価値なんてないよ。
25になって思うけど、
学校へ行かない、という道は、
「別の道である」ということに過ぎないと、思う。
違う道であるだけ。
あのね、
他の世界なんていくらでもあるんだよ。
「学校」という「数ある場所のひとつ」に合わなかったからといって、
自分をダメだと思う必要なんてこれっぽっちもなかった。
自分の居心地のいい場所、
輝ける場所は必ずある。
世界をこれしかないと決めつけてしまうこと、
こんなもんだとあきらめてしまうこと、
それじゃ、可能性を狭めてしまうだけ。
選択肢は今の自分に見えないだけで、
見ようとしていないだけで、
たくさん存在しているよ。
世界は、
自分の想像を軽く超えるくらいには、
豊かなんだよ。
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そういえばこれも貼っておこう。
「新しい学校のカタチ」を考えてみた記事。FBシェア120件くらいになったやつ。
http://sasakiakari.net/column_fb/school.html
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真奈美さんは元不登校児の母として、
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