「死の白鳥」の異名をもつ爆撃機B 1 とF 15 の訓練。

「人を殺さない」というのは最高の「文明論」ではなかろうか。

 

真の文明ハ 山を荒さず 川を荒さず 村を破らず 人を殺さゞるべし

足尾鉱毒事件についに見かね、耐えかねて立ち上がる。明治天皇に直訴もためらわなかった田中正造の伝言(1912,6/17日記)である。

 

沖縄では女性が乱暴を受ける。基地反対をデモしてゐたら「土人」と呼ばれた。辺野古の海についにコンクリートブロックが投入された。ヘリパッドが造成される。次々と自然が破られる。沖縄は人権や立憲主義の埒外で、地位協定、日米安保が「日本国憲法」の上位にあるらしい。田中正造は真の文明論者だ。人はプロメテウスの火を得てから、あらゆる文明論的システムをあたかも人間の欲望と生存のために敷衍、網羅して来た。契約や、法律であり、武器や戦争である。1928「パリ不戦条約」までは、戦争すら国家の専権事項として恰もその植民地的帝国主義的行為が正義のごとく扱われてきた経緯がある。「パリ不戦条約」はようやく国際紛争を解決する手段として、武力による威嚇、武力の行使を禁止、戦争自体を否定した。然るにそれに先立つこと1912年、田中正造は「コロスナ」と、伝言したのである。

 

因みに日本では福澤諭吉の「文明論の概略」が親炙されてゐる。未開があって、人はバーバリアンから文明へと至ると云ふやうな、後の「脱亜入欧」のもとになったあれである。しかし私に云はせれば、諭吉は文明論を語るが、決して文明人ではなかった。後に勝海舟に「瘠我慢の説」を開陳して勝海舟を批判するに及んで、海舟はやんわりと「行蔵こうぞうは我に存そんす。毀誉きよは他人の主張。 我に与(あず)からず。我に関せずと存控」。出処進退(幕政から明治政府へ)の決定については私には私なりの基準がある。それは公言して、他人の承認を求める筋のものでもない。毀誉褒貶は所詮他人ごとである。オレは知らんよ。ついでに云へばこの後に「ところであんた明治の回転のころはどこにゐたん ?」と云ふことになる。キナ臭いチャンバラから逃げ回ってゐた。西郷も海舟も、それはバーバリアンかもしれない。クーデター、革命を起こすやうな奴はしょせん文明人ぢゃあないのだと。しかしながら西郷と海舟によって「江戸城の無血開城」がなった。つまり、戦争が回避され、江戸市民の人命の損耗が回避されたのだ。

文明開化が盛んに喧伝されたころのことである。学者たちが名前を中国風に記すほどの中華文明への傾斜ぶりだったはずの日本が、いつの間にか大中国はじめ、その儒教の国・李氏朝鮮などを「固陋の国」と侮蔑、下に見るようになっていった。代表的なものが福沢諭吉の「脱亜論」だった。福沢は清=中国は相携えて欧米に対抗する友邦に値しない「悪友」だと言い切った。「わが国は隣国の開明を待って共にアジアを興すの猶予あるべからず、むしろその伍(ご、仲間)を脱して西洋の文明国と進退を共にし、その支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故(ゆえ)にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人がこれに接するの風に従って処分すべきのみ。悪友を親しむ者は共に悪名を免かるべからず。われは心においてアジア東方の悪友を謝絶するものなり」。「脱亜論」は明治18(1885)年3/16日付の日刊紙「時事新報」の1面に掲載された社説の題である。

 

とにかく一度は諭吉は韓国の金玉均キム・オッキュンらに夢を託した。チャンバラで活躍できなかった諭吉は自ら隣国韓国のクーデターに手を貸してみたくなったのだ。ところがこれから下に記すやうにクーデターが三日天下で敗走すると、すぐに手の平を返した。両班があって、まだ科挙があって、下手をすればまだ辮髪があって、地方に行けばアニミズムの世界、シャーマンが村人たちをたぶらかせている・・・固陋、野蛮な韓国と云ふことになった。そしてついでに庇護を求めて日本に転々として来た金玉均までを冷たく見限った。大きく"脱亜入欧"に転換したのである。しかし、なんと云ふ合理主義者なのだらうか。

 

甲申事変1884,12/4)では福沢諭吉や日本政府が手を貸した韓国開明派・金玉均キム・オッキュンらのクーデターはあっけなく失敗し、乗り込んできた袁世凱らの清の軍隊の強さの前に駐留日本軍は一蹴された。だが、日本は次第に近代国家の形を整えてくる。1885年、内閣制度がスタートする。初代首相に伊藤博文が就いた。甲申事変では諭吉は臍を噛み「脱亜入欧」とばかりに古い韓国に見切りをつけ、日本は西洋合理へと突き進んだ。日本は壬午、甲申の変で清国軍の強さに学習し、戦はGDPでするものぞ、と富国強兵に励んだわけである。

さて、あわやクーデターから逃れた金玉均はその後どうしていたか。見切りを付けられた諭吉らの庇護もなく、あわれ金玉均はその間にも日本の小笠原やサハリンあたりまで点々と潜伏を続け、しかしついに1894,3/28日、逃亡先の上海で見つかるところとなり暗殺された。

 

壬午事変(じんごじへん)とは、1882年7月23日に、興宣大院君らの煽動を受けて、朝鮮の漢城(後のソウル)で大規模な兵士の反乱が起こり、政権を担当していた閔妃びんひ一族の政府高官や、日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害され、日本公使館が襲撃を受けた事件である。当時の李氏朝鮮は、壬午軍乱(1882年)で興宣大院君が清へ連れ去られており、閔妃をはじめとする閔氏一族は、親日派政策から清への事大政策へと方向転換していた。このままでは朝鮮の近代化はおぼつかないと感じた金玉均・朴泳孝・徐載弼らの開化派(独立党)人士らは、福澤諭吉大隈重信をはじめ一足先に近代化を果たした日本の政財界の代表者達に接触し、交流を深めてゆく。1882年2月から7月まで日本に遊学し、福澤諭吉の支援を受ける。留学生派遣や朝鮮で初めての新聞である『漢城旬報』の発行に協力。

 

しかし甲申事変からわずか4カ月ほとの後に諭吉のこのプラグマティズム的な変身ぶりはあまりにあからさまだ。「わが国は隣国の開明を待って共にアジアを興すの猶予あるべからず、むしろその伍(ご、仲間)を脱して西洋の文明国と進退を共にし、その支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故(ゆえ)にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人がこれに接するの風に従って処分すべきのみ。悪友を親しむ者は共に悪名を免かるべからず。われは心においてアジア東方の悪友を謝絶するものなり」───。まるで舌鋒鋭く、諭吉の"ヘイトスピーチ"のごとくである。理ではなく、義に感じることが出来ない人間はもはや文明人とは云へなゐ。

 

1894年3月28日金玉均は上海で閔妃の刺客洪鐘宇(ホン・ジョンウ)にピストルで暗殺された。遺体は清国軍艦咸靖号で本国朝鮮に運ばれ凌遅刑に処された。その遺体はバラバラにされ、胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山、片手及片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道で曝された。古い古い前時代的な刑罰が残っていたわけだった。国家は深い混沌とした暗がりの中に未だとどまっていたのだ。

 

甲午農民戦争東学党の乱1894,春のことである。。

甲午農民戦争を率いた全 琫準(ぜん ほうじゅん)は1895年初頭に捕えられ、漢城(ソウル)で1895年に処刑された。東学とは=シャーマニズムに由来する。全琫準が処刑されて間もなく、全琫準を密かに偲んで次の歌が全羅道で流行ったという。

「鳥よ鳥よ 青い鳥よ

/緑豆の畠に降り立つな

/緑豆の花がホロホロ散れば

/青舗売りが泣いて行く」

緑豆は全琫準のことで、青舗は緑豆で作った菓子、青舗売りは貧しい民衆を表していた。

 

1894開化派の中心人物金玉均が殺され、そして5月31日、閔氏政権に不満をもつ農民が蜂起し、甲午農民戦争(東学党の乱)が勃発した。農民軍は全州を占領したが、統治能力を失った閔氏政権は宗主国清に軍の出動を要請。清の軍隊が朝鮮半島に駐留することを嫌った日本政府は、日本も朝鮮へ出兵することを決定した。閔氏政権が農民に譲歩するかたち(全州和約)で戦争は6月にいったん沈静化した。そのあいだ日本は閔氏政権に内政改革を求めたが、受け入れられず、日清戦争開戦を2日後にひかえた1894年7月23日、日本軍は景福宮を占領した。

 

日清戦争は同年7月25日の豊島沖海戦で火ぶたが切られ、9月の平壌攻略と黄海海戦、10月の鴨緑江渡河、11月の旅順攻略と日本軍の連戦連勝が続いていた。その高揚感の中で開催された東京市の祝捷イベントは、まさしく近代日本の大衆的ナショナリズムに枠組みを与えたといえる。川上音二郎一座の戦争劇への歓声から、押しかけた大衆の「放尿泉の如し」の悪臭まで五感に訴えるエピソードも満載だが、何と言っても極めつきは不忍池での「黄海擬戦」だろう。清国艦「定遠」「致遠」の巨大張りぼてが焼撃され、大歓声の中で花火が打ち上げられた。94,12/9上野公園で開催された日清戦争祝捷大会。戦争と云ふ見世物。中国蔑視の大衆感情を育んだその文化史的側面を物語る。

 

文明論的には「真の敵」になりうるかもしれない欧米列強ではなく、同じ東アジアの清との戦争に「名分が立たない」と批判した勝海舟など、反対論も多かった。明治天皇も「今回の戦争は朕素より不本意なり」(『明治天皇紀』)と不満を示していた。だが、日本はこの戦争を「開化の国・日本」と「因循固陋の国・清」の「文明と野蛮の戦い」と位置付け「義戦」として正当化した。

 

日本は閔氏政権と対立していた興宣大院君高宗の父)の復権を行い、開化派の金弘集政権を誕生させた。金弘集政権は日本の支援のもと、甲午改革を進めた。日清戦争は日本が勝利し、1895年4月17日下関条約が締結された。その結果、朝鮮は清からの独立を果たしたが、三国干渉によって日本の影響力が後退すると、甲午改革によって政権を追われていた閔妃とその一族はロシア公使ウェバーとロシア軍の力を借りてクーデターを行い、1895年7月6日に政権を奪回した。下関条約からまだ3ヶ月も経過していなかった。(Web)

 

乙未事変(いつびじへん)と云ふ陰惨な事件が起きる。閔妃(ミンビ)暗殺───

閔妃は朝鮮王朝末期の国母と仰がれた。日清戦争の後、ロシアと結び日本排斥を企てたため、日本公使三浦梧楼の陰謀により1895,10/8日、暗殺され、「三浦梧楼」率いる兵士が女官に間違いないか?と訊ね、閔妃は森の中で焼かれた。夫の高宗コジョンはロシア公使館に逃げ込み、そこで執務を採った。

様々な青春がある。後に伊藤博文を哈爾浜駅頭で銃で暗殺した安重根はまだ15歳の少年だった。この事件の直前までは少なくとも安重根少年はまだ東洋の日本国に憧れを抱いていた。だが、この事件を機に“恨”日本へと急傾斜して行ったのだ。

そのままに読めば、日本は自国を守るための武力を有する実力組織を保持するが、戦力は保持しない、と云ふことになる。第2項の戦力とはあからさまに他国への侵略を意味し、自己の正当防衛のために例えば、剣道や柔道、または空手など、自己を鍛えることなどは当然のことながら否定されてはいない。「芦田修正」1946,8/24憲法改正草案審議会で芦田均が憲法66条第2項のシビリアンコントロールの規定を念頭に「前項の目的をたっするため」と挿入した。「武力」と「戦力」を明確に分けて考えなければいけない。「武力」が国を渡った時に「戦力」と云ふことになる。自衛隊の契約を2項目に分けて考えなければいけないかもしれない。一つは平時の内国における業務(災害など)、もう一つは外国における邦人救出とか、PKOなど国際平和に関するものである。平時においては二つの概念は一緒の「専守防衛」であるが、誰かないしはある部隊が国外にある目的をもって出るに及んで、武器使用の緩和や、保険保障対応など別な契約が国との間に必要になると思われる。

 

安倍首相の加憲の目的は、最初は96条(発議要件)の改正を目指したがハードルが高く、次にそれではと解釈によって集団的自衛権行使を可能にした。そればかりか安保法制を束にして強硬採決、法案を成立させた。今度はいよいよ本丸である。「解釈」によらず堂々と正面から「改憲」によって集団的自衛権の行使容認を確かなものにしやうとしてゐるのである。

 

「専守防衛」の憲法九条は日本の世界に誇るぶっちぎりのブランドです。マハティールさんが云ったように全国家が憲法九条を持てばそれは"元和偃武"と云ふことになり、間違いなく世界は平和になるでしょう。北朝鮮だってそれこそ命がけで必死です。砲艦外交より、安心の保障を優先すべきです。