東日本大震災義援金 募金状況【3/15~3/20】
東日本大震災義援金 募金状況【3/15~3/20】
弊社の経営する千日前はつせ・個室もつ鍋屋ぎんなべ・個室もつ鍋屋ぎんなべ離宮・milkhall の4店舗で実施している、東北関東大震災の共同募金活動の結果報告です。
通常版ブログ【至高のソースを創る!!】はこちらからご覧下さい。
・お客様からの募金100円に対し、店舗からも同額の寄付をして全額を被災地へ寄付します。
・寄付先は全額「日本赤十字社 東日本大震災義援金」です。
・毎月10日、20日、末日に集計し、結果報告をいたします。
・結果報告では募金された氏名のみを公表し、メールアドレスなどの個人情報が外部に出る事はありません。
・カッコ内の数字は100円より多くの募金を望まれた方の募金金額を表します。
・メールアドレスを登録された方にはメールでの結果報告を実施しますが、手書きのものを転記しているため、届いていないようでしたら各店舗のお問い合わせよりご連絡ください。
milkhall 第一回集計 平成23年3月15日~平成23年3月20日(6日間)
兵頭様(1000)、村井様(5600)、ドン様(1000)、長谷川様、谷本様(1000)、まっつん様、佳代様(300)、hiroro様(500)、池田憲治様(200)、なお様、milkのろんさかぱ様(1000)、トトロン様(1000)、加藤様、アバ様(1000)、松岡様、10106ん様(1000)、はんぞ様(1000)、はんぞ@二千日前様(1000)、たっきょん様
募金金額16200円+店舗より16200円=32400円
千日前はつせ 第一回集計 平成23年3月16日~平成23年3月20日(5日間)
前川様、タクミ様、若松那恵様、オノ様、カヨユッケ様、上村裕和様、ムラカミ様(400)、カワイ様、ヒロコ様、タモツ様、ノゾミ様、松本様、川本剛様、横山雄一様、岡井谷太亮様、千葉尚美様、二星様、沼田綾音様、小野寺正治様、西田様、田辺様、佐藤尚太様、福井希栄様、笠井信吾様、沢田様、伊東様、伊藤様、北原衣梨様、りね様、ゆりのしん様、小室様、中井章太様(1000)、村田陽子様(1000)、鳰様、鈴木麻子様、菊池恵様、高安様、みうら様、林様、う様、松下様、小田真広様、田村光規様、浅野早紀様、柴野正和様、加藤麻子様、丸山義己様、浦本晃永様、杉原竜太様、仁木史織様、高山泉様、田畑穂乃佳様、白石和也様、DELMESTRE Cecile様、DELMESTRE MACTIAL様、大谷奈緒子様、谷翼様
募金金額8700円+店舗より8700円=17400円
個室もつ鍋屋 ぎんなべ・ぎんなべ離宮 第一回集計 平成23年3月16日~平成23年3月20日(5日間)
ななこ様、いけだ様、阪野様、良湊様、ともみ様、江口様、箕浦様、安達様、藤原様、辻元様、石井様、マツオカ様、コガ様、シュウイチ様、マツイ様、ヨシミ様、シマダ様、カワサキ様、ミワ様、ヒガシ様、ミナミ様、別府様、清水様、浅井様、玉置様、中村様、中村様、上田様、酒谷様、清水様、青山様、川田明里様、北野博久様、折戸佑基様、中西麻乃様、今村真悟様、保田敬子様、廣田泰規様、ゆうすけ様、えりな様、森本淳二様、きょうちゃん様、まみちゃん様、かよちゃん様、ミウちゃん様、とくめい様、とくめい様、タカヒロ様、森本正仁様、水上祐貴様、石井様、宮城様、船田様、野村様、小黒様、大畑様、関様、佐々木♡西村様、西田尚史様、和田悠紀様、赤木亮太様、吉田菜莉子様、白澤純一様、前川敦孝様、西田悠人様、古市裕香様、佐野僚亮様、水田和也様、高島様、逢坂様、井手様、澤井様、新藤様、山口様、堀場様、松本様、三箇様、徳重様、北野様、森田様、港様、片岡様、小木本様、河野様、南様、高城様、中の様、山邊様、鷲田様、キンジョウ様、小田真広様、木下恵梨様、植野佳奈様、荻野健様、高橋宏季様、金海尤様、小池由紀子様、中村友梨奈様、奥村友二様、竹内勝之様、山内綾子様、柿本 F 祐郎様、柿本有沙様、森本隆夫様、長岡清美様、金谷泰希様、神谷様、畑中寛美様、戸上梨紗様
募金金額11500円+店舗より11500=23000円
milkhall 32400円
千日前はつせ 17400円
個室もつ鍋屋 ぎんなべ・ぎんなべ離宮 23000円
合計 72800円を日本赤十字社 東日本大震災義援金に送金しました。
皆様の温かいご協力に深く感謝いたします。ありがとうございました。共同募金活動は引き続き行いますので、ご来店の際はぜひご協力をお願いします。被災地の復興・被災された方々の救済に役立てるようがんばります。
【65年の時を越えて その2】 祖母から学ぶ商売のブレない原点。
こんにちは。至高のソース完成に向けてあと一歩!! 全てをかけて挑み続ける、千日前はつせの長谷川です。
今回は、前回の【65年の時を越えて】 の続きです。
ミナミの発展
戦後、ミナミは演芸と飲食の街として復興を遂げ、特に千日前は大劇(大阪劇場)を中心として1950年~1960年代まで大きく栄えました。そして難波千日前近辺が「お好み焼の聖地」と広く呼ばれるようになったのが1970年代。大阪最大の観光スポットとなり、昼間は様々な地方からの観光客で賑わい、夜は大阪で働く人たちが訪れる繁華街となりました。
観光地ながらも地元の方たちも多く訪れる事(繁華街=観光スポット)が、ミナミという街の最大の特徴だと思います。長い歴史が作り上げた街で店を営む事は、私は誇りに思っています。大阪人の行きつけのお店に観光で訪れた方もご来店される。そんな店を目指して千日前はつせは日々営業しています。
初代と共に頑張ってきた祖母
大正生まれの私の祖母は今でも毎日出勤し、お客様を迎えるための準備をします。初代の長谷川清之(故人)と共にはつせビルを戦災から復興させ、常に第一線で頑張ってきました。
祖母いわく、昔の千日前は今よりもっと人が多く、人々の雑踏が店内からも一日中聞こえ、えべっさん(十日戎)の時期には店内の壁に笹掛け専用の棚が据え付けられてあり、えべっさん帰りのお客様の笹で壁中が覆い尽くされていたそうです。当時の事を祖母は鮮明に覚えており、祖母にとって毎日忙しく働いていた時が「古き良き時代」でした。
そうして長い間休まずに「千日前はつせ」の礎を築いてきた祖母と話をする度に、商売の原点は何なのかを気付かされます。遠方から来られた方には大阪の味と団らんを、仕事仲間と来られた方にはいつもの楽しいひとときを。観光で来られる方だけではなく、大阪人とのふれあいを大切にし、決して立地条件に甘えて適当な営業をする事はありません。その考え方は、私の営業方針の固い基礎にもなっています。
どんな時代もブレない「商売の原点」
私は「商売は人とのつながりで成り立つ」と信じています。ご来店されるお客様がいて、自分一人ではなくスタッフとの協力で成り立ち、納品業者さんがお互いの納得できる条件で納品して下さる。どんなに頑張っても自分一人ではできません。ステークホルダーが密に関わり合い、そして喜びを共有できる事が飲食店経営者としての一番の生きがいだと思っています。
日々の色々な出来事の中で、私は「至高のダブルソース」を完成させようとしています。本当に自分の納得できるものができるかはまだ分かりませんが、現在行っている最終段階の詰めが成功すると、夢にまで見たソースが完成します。
祖母が過ごした古き良き時代、人生の中で一番輝いていた時代に祖父と一緒に賄いとして味わったあの味。そのソースは新しいものでも古いものでもなく、私達のすべてを物語ってくれるものだと信じています。無事に完成したソースは、今は亡き初代・長谷川清之・戦前のはつせ旅館で初めてダブルソースを使った従業員の方々・千日前はつせの味を求めてご来店頂いているお客様・そして今でも全力で頑張る祖母に捧げたいと思っています。
了
【65年の時を超えて】至高のソース完成に向けて改めて歴史を振り返る。
こんにちは。お好み焼や焼きそばなどの粉モンを、より一層美味しく食べるための「至高のソース」完成に向けて日々全力疾走する、千日前はつせの長谷川明男です。
「至高のソース創り」に挑戦をしてから一年近くが経とうとしています。紆余曲折がありましたが、完成まであと一歩という所までこぎつけました。当店ではウスター系ソースをかけた後で特濃ソース(どろソース)をかける「ダブルソース」で頂きますが、現在開発中のソースはウスター系の方で、二種類のソースをかけて完成させるという意味では特濃ソースも「至高のソース」の相方となります。そこで特濃ソースはこのままでいいの? と聞かれると、答えは「YES」です。今回はなぜ特濃ソースが完成されたソースなのかを書きたいと思います。
はつせソースの歴史
千日前はつせにおいて、何よりも自慢できるのは「ソース」です。生地にも原価を惜しまないこだわりがありますが、ソースの味はいわばプライドです。しかし一言で「ソース」と言っても、私には色んな要素が浮かびます。
まずは前述の通りである「二種類のソースをかける」という特徴。そしてソースメーカーですら驚く「どろソース」のクオリティー。 この二つが大きく占めます。それなりに長い歴史がある中で、当店のソースというものがどういうものなのかという話は、明治後期にさかのぼります。
明治後期の旅館街
明治40年頃までの難波千日前(河原町)は旅館街で、弊社も当時は「はつせ旅館」として営業していました。(現在のぎんなべ離宮は「花屋旅館(現:花屋センター)」でした)
はつせ旅館では住み込みの料理人が賄いを作っていて、お好み焼や焼きそばも人気の賄いだったそうです。その賄いを食べていた祖父が物心ついた時、なんと、すでに「はつせ旅館」内ではダブルソースは定番だったのです。考案したのが誰かも分かりませんし、もしかしたら間違えてウスターソースをかけ、その後でどろソースをかけたのが始まりかもしれません。未だに謎のひとつになっています。
戦後の昭和20年(1945年)、焼け野原の中からビルを復興し、祖父である長谷川清之が興したのが「はつせ食堂」でした。戦後の混乱の中で早くできる商売が飲食店だった事、そして戦地でひもじい思いをした経験から従業員を食事に困らせたくないという思いもあったようです。
はつせ食堂の看板メニューである、大きな器に盛った「びっくりうどん」という商品が人気を集めたのが昭和30年代初め。その後「大阪の味 お好み焼 千日前はつせ」が誕生しました。
お好み焼ソースは手作りだった
創業当時からソースのこだわりを持ち、はつせソースは祖母が毎日手作りで作っていました。野菜や果物を大釜に大量に入れ、弱火でコトコトと煮るという一日がかりの作業でした。しかもずっと混ぜ続けなければならないので、想像よりも大変な作業だそうです。これが「はつせソース」の原点です。ウスターベースのソースは初めから工場生産を依頼していましたが、どろソースはこのようにして作られていました。手作りにこだわっていた裏には、戦前に賄いで食べた味を再現して広めたいという思いが強くあったのです。祖母の手には、未だに消えない大きな「たこ」があります。
その後、機械の質が向上したのもあり、店が忙しくなって手作りではまかないきれなくなってきた事で、昭和60年ごろからソース会社にレシピを公表し、工場生産に移行する事になりました。その時も現在の「至高のソース創り」と同じく納得のいく味が出せるまで相当な時間がかかったそうです。
そして難波千日前近辺には次第に多くのお好み焼専門店が増え、「お好み焼の聖地」と呼ばれるまでに発展していきました。その頃は大劇(大阪劇場)をはじめ、多くのお客を集めるスポットが集まり、大きなイベントを楽しんでからお好み焼を食べるというのが訪れる人々の定番だったのが背景にあります。
現在開発中のソースはその頃の「復刻版」を目指していると言っても過言ではありません。
続く