【65年の時を越えて その2】 祖母から学ぶ商売のブレない原点。
こんにちは。至高のソース完成に向けてあと一歩!! 全てをかけて挑み続ける、千日前はつせの長谷川です。
今回は、前回の【65年の時を越えて】 の続きです。
ミナミの発展
戦後、ミナミは演芸と飲食の街として復興を遂げ、特に千日前は大劇(大阪劇場)を中心として1950年~1960年代まで大きく栄えました。そして難波千日前近辺が「お好み焼の聖地」と広く呼ばれるようになったのが1970年代。大阪最大の観光スポットとなり、昼間は様々な地方からの観光客で賑わい、夜は大阪で働く人たちが訪れる繁華街となりました。
観光地ながらも地元の方たちも多く訪れる事(繁華街=観光スポット)が、ミナミという街の最大の特徴だと思います。長い歴史が作り上げた街で店を営む事は、私は誇りに思っています。大阪人の行きつけのお店に観光で訪れた方もご来店される。そんな店を目指して千日前はつせは日々営業しています。
初代と共に頑張ってきた祖母
大正生まれの私の祖母は今でも毎日出勤し、お客様を迎えるための準備をします。初代の長谷川清之(故人)と共にはつせビルを戦災から復興させ、常に第一線で頑張ってきました。
祖母いわく、昔の千日前は今よりもっと人が多く、人々の雑踏が店内からも一日中聞こえ、えべっさん(十日戎)の時期には店内の壁に笹掛け専用の棚が据え付けられてあり、えべっさん帰りのお客様の笹で壁中が覆い尽くされていたそうです。当時の事を祖母は鮮明に覚えており、祖母にとって毎日忙しく働いていた時が「古き良き時代」でした。
そうして長い間休まずに「千日前はつせ」の礎を築いてきた祖母と話をする度に、商売の原点は何なのかを気付かされます。遠方から来られた方には大阪の味と団らんを、仕事仲間と来られた方にはいつもの楽しいひとときを。観光で来られる方だけではなく、大阪人とのふれあいを大切にし、決して立地条件に甘えて適当な営業をする事はありません。その考え方は、私の営業方針の固い基礎にもなっています。
どんな時代もブレない「商売の原点」
私は「商売は人とのつながりで成り立つ」と信じています。ご来店されるお客様がいて、自分一人ではなくスタッフとの協力で成り立ち、納品業者さんがお互いの納得できる条件で納品して下さる。どんなに頑張っても自分一人ではできません。ステークホルダーが密に関わり合い、そして喜びを共有できる事が飲食店経営者としての一番の生きがいだと思っています。
日々の色々な出来事の中で、私は「至高のダブルソース」を完成させようとしています。本当に自分の納得できるものができるかはまだ分かりませんが、現在行っている最終段階の詰めが成功すると、夢にまで見たソースが完成します。
祖母が過ごした古き良き時代、人生の中で一番輝いていた時代に祖父と一緒に賄いとして味わったあの味。そのソースは新しいものでも古いものでもなく、私達のすべてを物語ってくれるものだと信じています。無事に完成したソースは、今は亡き初代・長谷川清之・戦前のはつせ旅館で初めてダブルソースを使った従業員の方々・千日前はつせの味を求めてご来店頂いているお客様・そして今でも全力で頑張る祖母に捧げたいと思っています。
了