【65年の時を超えて】至高のソース完成に向けて改めて歴史を振り返る。 | 至高のソースを創る!! 千日前はつせ 三代目 長谷川明男
2010年10月15日

【65年の時を超えて】至高のソース完成に向けて改めて歴史を振り返る。

テーマ:至高のソースを創る!!

こんにちは。お好み焼や焼きそばなどの粉モンを、より一層美味しく食べるための「至高のソース」完成に向けて日々全力疾走する、千日前はつせの長谷川明男です。


「至高のソース創り」に挑戦をしてから一年近くが経とうとしています。紆余曲折がありましたが、完成まであと一歩という所までこぎつけました。当店ではウスター系ソースをかけた後で特濃ソース(どろソース)をかける「ダブルソース」で頂きますが、現在開発中のソースはウスター系の方で、二種類のソースをかけて完成させるという意味では特濃ソースも「至高のソース」の相方となります。そこで特濃ソースはこのままでいいの? と聞かれると、答えは「YES」です。今回はなぜ特濃ソースが完成されたソースなのかを書きたいと思います。



はつせソースの歴史


千日前はつせにおいて、何よりも自慢できるのは「ソース」です。生地にも原価を惜しまないこだわりがありますが、ソースの味はいわばプライドです。しかし一言で「ソース」と言っても、私には色んな要素が浮かびます。


まずは前述の通りである「二種類のソースをかける」という特徴。そしてソースメーカーですら驚く「どろソース」のクオリティー。 この二つが大きく占めます。それなりに長い歴史がある中で、当店のソースというものがどういうものなのかという話は、明治後期にさかのぼります。



明治後期の旅館街


明治40年頃までの難波千日前(河原町)は旅館街で、弊社も当時は「はつせ旅館」として営業していました。(現在のぎんなべ離宮は「花屋旅館(現:花屋センター)」でした)


はつせ旅館では住み込みの料理人が賄いを作っていて、お好み焼や焼きそばも人気の賄いだったそうです。その賄いを食べていた祖父が物心ついた時、なんと、すでに「はつせ旅館」内ではダブルソースは定番だったのです。考案したのが誰かも分かりませんし、もしかしたら間違えてウスターソースをかけ、その後でどろソースをかけたのが始まりかもしれません。未だに謎のひとつになっています。


戦後の昭和20年(1945年)、焼け野原の中からビルを復興し、祖父である長谷川清之が興したのが「はつせ食堂」でした。戦後の混乱の中で早くできる商売が飲食店だった事、そして戦地でひもじい思いをした経験から従業員を食事に困らせたくないという思いもあったようです。


はつせ食堂の看板メニューである、大きな器に盛った「びっくりうどん」という商品が人気を集めたのが昭和30年代初め。その後「大阪の味 お好み焼 千日前はつせ」が誕生しました。



お好み焼ソースは手作りだった


創業当時からソースのこだわりを持ち、はつせソースは祖母が毎日手作りで作っていました。野菜や果物を大釜に大量に入れ、弱火でコトコトと煮るという一日がかりの作業でした。しかもずっと混ぜ続けなければならないので、想像よりも大変な作業だそうです。これが「はつせソース」の原点です。ウスターベースのソースは初めから工場生産を依頼していましたが、どろソースはこのようにして作られていました。手作りにこだわっていた裏には、戦前に賄いで食べた味を再現して広めたいという思いが強くあったのです。祖母の手には、未だに消えない大きな「たこ」があります。


その後、機械の質が向上したのもあり、店が忙しくなって手作りではまかないきれなくなってきた事で、昭和60年ごろからソース会社にレシピを公表し、工場生産に移行する事になりました。その時も現在の「至高のソース創り」と同じく納得のいく味が出せるまで相当な時間がかかったそうです。


そして難波千日前近辺には次第に多くのお好み焼専門店が増え、「お好み焼の聖地」と呼ばれるまでに発展していきました。その頃は大劇(大阪劇場)をはじめ、多くのお客を集めるスポットが集まり、大きなイベントを楽しんでからお好み焼を食べるというのが訪れる人々の定番だったのが背景にあります。


現在開発中のソースはその頃の「復刻版」を目指していると言っても過言ではありません。



続く



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