象の夢を見たことはない -296ページ目

遊ぶ脳は疲れない

ネガティブなことを言うのや書くのはあまり好きではない。


まあ、昨日のブログの記事を反省してたわけだが。。


前にも書いたけれど、そうすると自身の中でネガティブなことを言った自分を正当化する回路が働いて、ますます考え方が固定していってしまうからである。

しかも、そういう自己正当化は加速する。

最初は自分にとってのキズ薬くらいのつもりでたしかにその程度には効くのだが、自己正当化が加速して毒になってしまうのである。自分にとっても、他人にとっても、非常にharmful。


だから、とりあえずどっかいいところをなんでもいいから探す。

そのほうが自分にとってはとりあえず楽だからなのだけれど。。

それもやりすぎると『自分にとっての解』がボヤけていってしまう。

欲望があいまいになって、leapできない、つまらない人間になってしまうように思う。


『海馬-脳は疲れない』を買った。

海馬―脳は疲れない (新潮文庫)/池谷 裕二
¥620
Amazon.co.jp

この本、面白い。

「あ、やっぱりそうなんだアップ」と思うところとか「目からうろこけろけろ」的な話がいっぱい。


脳科学の本は、まあPHP研究所なんかの本もそうだけど、「これをすれば効率が上がりますよ」とか「記憶力があがりますよ」とか、脳トレに対する欲望みたいのに突き動かされて買ったり、読んだりしてしまうのだけれど、考えてみればそういうのを読んで実生活に活かしていることはあまりない。


「タメになるだろう」と思って無理やり読んだものって、あんましタメにはならなくて、いつのまにかオモロイもののほうが勝るのだけれど、逆にそういうオモロイ本のほうがあとになってくるとなんとなく頭に残ってて、実際使ったりしている。


人とかモノとか、相性というのはどうしてもあって、無理やり楽しもうと思って楽しめるものでもないし、そうやって合わせても、それなりにそのときは苦痛を回避はできるけれど、そこで得たものというのは自分の中ではあまり伸びないものなのかもしれない。


脳の中で「好き嫌い」を扱うのは扁桃体というところで、「この情報が要るのか要らないのか」の判断は海馬ということろでなされています。

海馬と扁桃体は隣り合ってかなりの情報交換をしている。

つまり「好きなことならよく憶えている」「興味のあることをうまくやってのける」というのは筋が通っているんですよ。感情的に好きなものを、必要な情報だとみなすわけですから。


とは池谷さんの弁。海馬は記憶をする前のフィルターの役目があって、そこで要るものと判断されたものが記憶として定着するらしい。

おおっ!やっぱりそうなのか。


まあ、そんなふうなら、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いと判断して、好きなものにどっぷりのめり込むほうが伸びるし、leapもできるかもしれない。


セレンゲティのチーターとかも遊びながら狩りを憶えるのは、そういうものだと思う。そうして憶えたものは身体にも残るのだろう。

この本どっかでタメになるだろう思ってイヤラシく読み始めた本だが、「オモロイなあ」って感じで相性良く読める本だった。

新潮文庫らしくない表紙と表紙の紙の質の本で、そういうところも『遊び』があっておもしろい。


やっぱり、仕事には『遊び』がないとハッピーにはなれないし、成長もしないと思う。

苦しんだ分だけ成長するというのもわかるのだけれど、それも自身に対する愛しさから来るようになったらちょっと考え直したほうがいいような気もする。

Bourne Ultimatum

Bourne ultimatumを見ている。

英語版でしか見た事がなかったから、改めて借りて見直したのだけれど。


以下はネタバレを含むので、見てない人は読まないでくだされ。


しかも、かなりネガティブな感想なのである。

ここ数年でもっとも好きな映画シリーズなだけに思い入れが激しい。

特に最終話であるultimatumについては、すべてが最終決着する話であるだけにその出来に対しては自分の中でハードルをかなり高く設定してしまっていたこともある。


でも、それでも、ultimatum、好きになれない。


というか、第一作から第三作にいたる流れで、映画のスケールがサイズダウンしていっているように思える。


もちろん、内容もストーリーも緻密になってきて、アクションも練られたものになってきている。

使われる技術は、それぞれが前回のモノを土台にして、さらに新しいものを積み上げるというものなので当然、それぞれが前作よりもグレードがあがってくる。カメラワークにしてもそう。


しかし、そのために遊びがなくなって来ている。シリーズの性質上、どうしても遊べる余地が少なくなってしまうのか。


三作目のultimatumは、前作までのキャストを引き継いでいる。新しい対決もあるが、それはただのCIA組織内部での対決する役者の顔が変わっただけ。Bourneを狙う暗殺者という構図も同じ。

ロケーションの場所もタンジール以外は代わり映えがなく、画面がもつ均一な印象は、青と白のモノトーンとあいまってさらに閉塞感を加速させる。

スピードの緩急のつけ方も、この映画、どこをとっても同じ。いくつかの部品からなるのだけれど、すべての部品が均質なのだ。

戦いも、すべて閉じられた世界で行われる。

部屋の中で行われる情報戦、タンジールでの追跡と格闘、狭いニューヨークの道路でのカーチェイス。

すべて閉じられた狭い場所で行われている印象。

ストーリー上、そうならざるを得ないという圧迫感はわかる。


主題自身が三作目に向かって収束していくからだ。


それゆえに緻密さ・スピード・技術面を含め、閉塞感もまして行く。

ストーリーが密になり、戦いも密になり、主題は収束していく。


がしかし、それに見合ったほどの最終的な解放は訪れない。

プロセスの達成感が得られないのである。

加速された閉塞感に見合うカタルシスがない。


かといって、007みたく美女と熱いベーゼをなんていう安易な結末で納得できるわけもない。

暗殺者としての運命を自ら選ぶという選択をした時点で、最終的に自身の人間性とのハザマで葛藤せざるを得なくなるというドンヅマリ。それでも、生きるしかない。


そういう共感は、いろんな場所で狭くなっていく今の世界の中で、自身の運命とおのおのが向き合っている観客にとっては、あまりにありふれている。

観客にとっての『解』がないというのは、すくなくとも娯楽映画として始まったシリーズ映画として最悪の完結だと。そんなふうにも思える。


海に浮かぶBourneで始まったこのシリーズは、最後に海(ハドソン河?)に落ちたBourneが泳ぎ始めるシーンで終わる。

彼自身を取り巻く状況には変わりはない。誰かが言ったようにこれではエンドレスループである。

彼はそこから彼自身のアイデンティティを取り戻さなくてはならない。


もし、次の作品があるならば、例えばどこかの場所で、まったく別のことをして生計を立てているシーンから始めて欲しい。どんな仕事でもいい。コックでもいいし、ツアーガイドでもいい。あるいは子供が、とくに息子がいるという設定で始めるとかだとさらによい。希望の萌芽が形として見えるからだ。

ほんとはそういう部分を三作目のどこかに入れるか、彼が地に足を付けた人生を始めるための希望を伸ばせる余地を忍ばせて終わって欲しかった。


だが、一作目のマリーとの結末を否定して、二作目が始まっているのでそれはまったくもってひじょうに難しいことになってしまっている。運命にバインドされたボーンにとってマリーは自由の象徴だった。


しかし、なんらかの方法は模索できるはずだった。また模索できるはずだ。

マットデイモンはこの映画のあと、「おなじ主人公で4作目なんてありえない。ボーン・シリーズは3作目でラスト」と言った。

そういったマットの言葉は、自分にはどこか逆説的に聞こえたのは、そういうこともあってなのだが、どこかで彼には敵を討って欲しいとそんなふうに強く思う。


<メモ>

ボーン・アイデンティティ The Bourne Identity

監督 タグ・リーマン

制作総指揮 ロバート・ラドラム

        フランク・マーシャル

        タグ・リーマン

脚本 トニー・ギルロイ

    ウィリアムブレイク・・ヘロン

撮影 オリヴァーウッド


ボーン・スプレマシー The Bourne Supremacy

監督 ポール・グリーングラス

制作総指揮 タグ・リーマン

        マット・ジャクソン 他

脚本 トニー・ギルロイ

    ブライアン・ヘルゲランド

撮影 オリヴァー・ウッド


ボーン・アルティメイタム The Bourne Ultimatum

監督 ポール・グリーングラス

制作総指揮 タグ・リーマン 他

脚本 トニー・ギルロイ

    スコット・Z・バーンズ

    ジョージ・ノルフィー

撮影 オリヴァー・ウッド


スタッフをみても、いったい何故ああいう最後に突入せざるを得ないのかわからない。

ボーン・アイデンティティが持っていた物語性や大らかなダイナミズムが奪われたのは何故?

きょうの海馬

『ほぼ日』に海馬についての糸井さんと池谷裕二さんとの対談 がある。


その中で、池谷氏が

お年寄りのかたというのは、実は、かなりふつうの人でも、いろいろなものが見えているらしい、という話があるんです。
糸井さんとぼくが話しているこの間に、たとえば、子供が座っているように見える。

でも、「ほら、ここにいるじゃないの」と言ってしまうと、
「おばあちゃん、ボケちゃった」
とか思われるだろうから、けっこう、お年寄りのみなさんは、見えていても言わないらしいんです。


と言われていて、なんかそれはおもしろい話だと思った。

見えないものが見えるという経験は日常生活ではないけれど、寝る前とか脳がある一定の状態のときに目を瞑ると幻覚のようなものが見えるというのはよくある。夢を見ているのではない。

けっこうくっきりと見えることがあるのだが、原理的には夢と同じかどうかはわからない。もうちょっとクリアな像なので違うような気がする。


見えない暗闇をなにかで埋めてしまうというのは脳の働きとして存在する。視界の一部が盲点で見えないとき、まわりの状況でその盲点を埋めてしまうと。そして、まったく見えなくなれば今度はもっと内側からなにかを生み出すらしい。


上のお年寄りの話もそういう『海馬』の盲点の話の延長で出てきている。


脳内認知のスキーマの話だが、スキーマは類似する状況が共通に持つものを基礎としている。状況というのはまったく同じなわけではないので、その構成要素はある程度の幅を持っている。

その幅によって、いろんな状況に対応できるのだけれど、例えばレストランのスキーマだと、注文、支払い、飲食なんていう時系列のスキーマを持っていて、テーブル、ウエイトレス、メニューなんていう構成要素が入っている。この構成要素に幅があるおかげで、どんなレストランでもある程度反応できると。

で、どうやらこの構成要素にデフォルト値があって、記憶においては、突飛なものとして残らないものについては、自分の経験において平均的な事例でそれを埋めてしまうという。

これがエピソード記憶のひずみなのだけれど、長期的には詳細なエピソード記憶はゆっくりとデフォルト値に以降する傾向があるらしい。


これが糸井さんが言っているガンコ化の一部である。幻覚だったり、記憶だったり。いろいろなところで人はガンコ化していくのかも知れない。


で実際はそんなことを知っていても、それは他人には当てはまって自分は違うと思ってたりするのである。


なかなか自分もガンコ化してます(笑)

Chokesleeper

明日、飯田CAFEINdustoryのライブに参戦する予定だったのだが、予定がハイってキャンセルダウン

でも、その予定もポシャった。


あーモヤモヤするもやもや~


で、今池clubupsetのライブに参戦してきた。


Defthline presents 『DIE IS CAST vol,1』

Defthは名古屋クアトロで見てから知っている。

今回はchokesleeperを観に行ったのだけれど、新曲が3曲ほど。

うーん、知らんかった。

レコーディング前にライブで演奏してお披露目していくスタイル。会場で勝ち抜いた曲が生き残ってCDに入るのだろうか。そういうのは勢いがあるバンドしかなかなかできなかったりする。

ライブではそんな感じで、客は取り残されるような感じを何曲かで覚えるくらいがちょうどよいのかもしれない。


最近は、Myspaceにたいていのバンドのページがあるのか。chokeだと

http://www.myspace.com/chokesleeper

エルレだったら、ellegardenでスペースあるし。。ただ、最初にバンド名でスペース取られちゃっているとアウトみたいで、fishmansで調べてみたら一般の人だった。。あらまあ。


ラウド系のライブなので、まあ客層は若い。

おっさんな自分にとっては、若いエキスをすするこうもりにはちょうど良い

というか、欲望が鈍っているときにはパンク系のライブはユンケルビタミン。なんかよりには効く。


バンドの合間は、例によってDJが飛ばしたりしてるのだけれど、それぞれのライブでやはり時の流れ方というのがあるようで、前半、中盤、後半でライブ会場の空気の流れも変ってくる。


そのあたりは、DJブースの乗りでぜんぜん変わってくるようで、今回は、中盤の空気がすごくPeaceスマイルくんな感じで、気持ちよかった。

TAROくんが言ってた、島でやるテクノのレイブはあんな感じのピースお月見な空気が始終ながれているのかも知れない。そうだとすると、やっぱり若い人は一度はレイブ行くべきだと思う。

むちゃむちゃ気持ちが良くて、人生観もかわるかも知れない。


後半のChokeからABNORMAL VOLTAGE渡る前に、抽選会があってチケットの半券に書かれていた通し番号で、CDやらTシャツ、シャツ、サンダル、帽子や、2万円のジーンズまで、なかなか大盤振る舞いだった。


でもそれからちょっと空気がダレてきた。

というか会場が狭いので空気もいい加減悪くなって来る。

ABNORMAL VOLTAGEで完全に空気が変わってしまった。

ヤカラな空気である。まあそれはそれで良いのだが、おっさんにはキツい。やっぱり、コアパンク、好きになれない。

おっさんの限界は、メロコアまでである。いや、辛うじてUZUMAKIとかロットンもいけるか。

今池CLUB UPSET、あの広さでは、3時間くらいのライブが限界だろう。

最後のDefthの前が開きすぎで、タバコの煙にもクーラーの効かなさにも嫌気がさして帰ってしまいました。

KO→SK氏、ごめんなさい。


あんましはしゃいだつもりもないのだが、履いていった草履が会場でたら壊れていた。

バリのみやげ物屋でネギって買った安物だったのだが、気に入ってたのに。。

やはり、ああいうところで買った東南アジアものは脆い。

そう考えるとmade in chinaのモノの品質は耐久性も含めてコストパフォーマンス段違いに良いのかもしれない。


飲みのお誘い

明日、知人の結婚披露パーティーと二次会がある。


マスターズのスイミング仲間なのだが、とりあえず披露パーティーには呼ばれていない。

ちなみに彼とはプライベートで遊んだことはない。


今日のマスターズの練習会で、その話を振られたので、「明日は用があって二次会行けないんですよ」と言ったら、その人はどうやらパーティーの方にも呼ばれててそっちのほうを意識してたようで、帰り際に「ちょっと飲みに行こう」と誘われた。

どうも、私が呼ばれなかったことを気にしていると思ってくれたようだ。


っていうか、確かに新郎とはクラブで会ったら会話はするし、仲が悪いわけではない(新郎というのも考えてみたらすごい日本語だ。外人さんはこういう言葉も覚えるのだろうか。関係ないが)。

ただ、披露宴に呼ばれるほど親しくはない。


飲みに誘ってくれたのは、外資の保険会社の支店長さんである。


面子というものに対して、ひじょうに敏感な世界の人なので、それもあって誘ってくれたのである。

それがわかったので、「あ、行きましょう。行きましょう」とすぐ応えて飲みに行ったのだけれど。


そういう面子を気にするのは自分にとっては非日常なことなので、心ではすぐにはわかるけれど自身が人を誘うというアクションを起こすほどには引っかかってこない。

しかし、日常業務内でそういうことに対してすぐアクションを起こせないのなら、あの業界では致命傷になるのかも知れない。

少なくとも、中途入社で支店長まで登りつめられるまでには行かない。そういうレベルの人だから出来ることなのかもしれない。


向田邦子さんのお父さんも苦労して保険会社の支店長まで登りつめた人で、向田さんのエッセイとかでは、そのお父さんのことがよく出てくる。

理不尽なお父さんと言いながらも、支店長として気を張って働いていた父の内面までかなり愛情深く見ていて、まあなんとなれば、そこまで見てくれている娘を持てたのは、当のおやっさんが知ってたかどうかは別にして、幸せなことだと思う。

私の妹も、父親のそういうところはよく見ている。妹ながら、たいしたヤツである。


というか娘というのはそういうものかも知れないと友達を見てても思う。

自分の周りにはマスコミが書き立てるような理不尽な娘はいないような気がするのだが。。

まあ、そういう人とは最初っから合わないので、始めから付き合いを避けるからかも知れない。


なんてことはない話だけれど。