象の夢を見たことはない -297ページ目

楽しさは主体性の問題

楽しいか楽しくないかは主体性をもって事に望んでいるかどうかにかかっている。


あたりまえのことだけれど、自分は依存症のケがあるのでそれを見失いがち。


流されている場合、やらされている感がある場合、主体性が持ててない状況は数々あるのだけれど、そういうときには


①自分が主体性を持てていないことにまず気づくこと。


②周りも、自分についても、よく観察すること。情報はモノを明確にする。


最重要なことを見つけてまずそれだけを目標とすること。


ただそれだけ。行動原則はシンプルにしないとねウインク



ジョン・レノンのオノ・ヨーコとの出会いは、ロンドンのギャラリーのオノヨーコの個展で


「はしごを上に昇ったあとに天井に吊り下げられた虫眼鏡で天井をみると、小さく書かれた『YES』の文字が読める」


という作品に惹かれたときだったという。

主体性というのはこの作品やこのエピソードそのものが表すようなそういうもので、感動と深くつながっている。

そう強く思う。


しかし、この作品といい、エピソードといい、すごくカッコいい。


2008横浜トリエンナーレでは、オノ・ヨーコが再び展示をするのだけれど、前回みたく反戦とか彼女の理性とやらが発するメッセージではなくて、この作品みたいな彼女自身の生き様が展示されているとよいのになあ。


オノ・ヨーコは、人間的に好きになれないのだけれど、『嫌い』という感情は『好き』という感情と同じかそれ以上に大事で、そこには必ず自分にとって大切ななにかが隠されている。そんなふうにも思う。

もし、今回行けるなら、それが何かを探してこよう。

ペタ

0時ちょうどによそ様のとこにペタしたら、ペンギンペンギンがブタブタに変わって帰っていった。


おおっクラッカー


どーでもいいですか。そうですか。まことにすいまめーん。

アメリカン・ラプソディ

ラプソディ。狂想曲、もしくは狂詩曲と訳すのか。昔は狂想曲だった気がするのだが。。


ラプソディとは、自由奔放でありながら、叙事詩的で民族的な色彩を持つ音楽らしいのだが、なぜかもの悲しい。


中学生のころは、狂曲だと思っていた。自由奔放なところで、騒ぐという字だと思ってたのだろうか。

そんなかんじでありながら、何故どこかしら物悲しいのか。

ハンガリー狂詩曲とかもそうなのだが、最初にそのかなしさに気づいたのが、クイーンの『ボヘミアン・ラブソディ』だった。

フレディー・マーキューリー自身にもどこかそういうイメージが付きまとっていて、この曲を最初に聴いたのはTVのライブ映像でだったのだが、彼の姿とその曲があまりにオーバーラップしていて、曲のかげにひそむなんともいえない悲しい気持ちに自分も同化してしまったような気がしたのを覚えている。


悲しみに耐えることができるのは、若者の特権であると誰かが言っていた。

彼が言った悲しみとは、そんなふうなもの悲しさであろう。ラプソディーの悲しみは、どこかしら思春期の悲しみにも通じているのだろうか。

スカーレット・ヨハンソンの横顔は、どこか故郷をはなれた人の悲しみを湛えているような気がする。

彼女の魅力は、そのもの悲しさにもあるように思える。

ただ乳がでかいだけでなくねこへび


『ロスト・イン・トランスレーション』を見た後、知人に勧められてみた映画だが、ヨハンソンの素材としてのそういう魅力は、異邦人としてのキャストでことに良く現れる。そんなふうに思える。


20代の前半は、妹がロンドンに留学していたこともあり、自然と意識もヨーロッパのほうに向かった。海外旅行もはじめて行ったのはロンドンだった。まだ、ソ連の上を飛べないためにアンカレッジ経由だった。

その頃には、ヨーロッパがなんとなく持つ物悲しさに耐えられたのだが、今はもう自分の嗜好も変わってしまったようだ。

そんな風に変わるなんて、その頃は少しも思わなかったのに。。


ブタペストの街並みがきれいだった。映画を見て、なぜか心に残ったのはその風景だった。

印象に残るのはやはりドナウ河のせいだろう。ロンドンにはテムズ河が、パリにはセーヌ河が街の中心を貫いて流れている。

ロンドンでゆったりと流れるテムズ河の河の流れのそばを歩いていると、なぜか自分がどこか遠いところにいることを強く意識した。そんなふうな気がしたことを今となれば思い出す。なぜかわからない。


テムズ河は、ウィンザー城やハンプトンコートあたりのちょっと上流のほうも、ロンドン塔からタワーブリッジを経てさらに河口のほうも船に乗ったことがあるが、なぜか上流の方は昼のイメージが、河口のほうは夕方のイメージが強い。

船に乗った時間がそうだからなのだけれど、そういう時間帯にそういう場所へ行くというのはなにか旅を思い出深くするためのメソッドのような気もする。

なかなか、そうは思い通りにいかないところがたぶん逆に旅の面白みだったりするのかもしれないが、その時間帯に「当たりの場所」っていうのは確実にあるような気がする。

若い頃は場当たり的な楽しみのほうが勝つのだけど、年食ってくるといいとこ取りをしたくなってくる。なんだかなあ。。


それぞれの河にも、それぞれの時間帯というのがあるような。

ガンジス河はたぶん朝だろう。セーヌ河は昼かな。夜もいいのだけれど。イスタンブールは、河じゃなく海峡だけど、夕方のモスクに映える夕陽とかきれいだろうなあ。


そんなことを考えてたら、物悲しいとかどうとかもふっとんで、どこかに行きたくなってきた。

レトロなデザインのおかし

ローソン、レトロなデザインを再現したお菓子を限定発売
 株式会社ローソンは7月15日より、レトロなパッケージデザインを再現したお菓子13種類を、ローソン限定で発売開始する..........≪続きを読む≫


レトロなお菓子、マレーシアに売ってましたアップ

コレ。


韓国コピー天国


。。パチモン?

いやいや、韓国ロッテの製品でしょう、おそらく。


韓国の商標権はよくわからんす。かっぱえびせんとか。

「矢場とん」までマネされてますからねえ。ああ、名古屋人しか知らねーか。てか、よりによって何で「矢場とん」?逆にまねされるのもすごいと思いますが、なんかどうなんだろう。

こういうのは中国のパチモンとちがって、コミュニケーション不足から話がこじれるような気がする。

日本の製品に感動したのでっていうのが見えなくもないからなあ。

ただ、筋の通し方というのは韓国でもあると思うのだけれど、そのへんがかなり甘い。

「なめとるんかむかっ」ってなるだろうことは彼らも目に見えるでしょうからねえ。そういう意識はないのだろうか。韓国人の友達がいないのでよくわからんす。


あとは有名なこーゆーのもあります。


タイグリコ


ちょっとまえにマイミクさんたちの間で流行りました。こっちはこれでちゃんとしたグリコなのです。

30年の実績をもつ東南アジアの拠点「タイグリコ」。

「東南アジアの拠点として、さらにおいしさを広げています。」

広げているらしいです。

でもなんか、中身が日本のに較べてスカスカだったような。。しけってたし。

賞味期限切れだったのかなあ、ロッキー。ポッキーだとヤバイらしい。

ローラーって商品名はなんだったっけ。

さらに、コレ。

ドラえもん。耳?

こうなってくると、もうわけわかりません。

ドラえもんでしょうか。

おもいっきり、細かいところを変えているところが、まさに子供だましです。
イカしてます。


あ、セブンイレブンコンビニはフツーに在ります、マレーシア。

日本の店と構えとか内装とか変わりません。

中身はこんななってますが。。イエーイ!


ちなみに、KLとかにはAEONもありますが、高級な店なようです。あえおん、なかなかやります。

なんか途中から話が変わってしまいましたが、まあいいや。


<昨日のTVブロスのお言葉>

何を言う、早見優  

by 村上ショージ
。。ビバ、TVブロスクラッカー

ベルクソンが残したもの

砂漠で迷う人は、それぞれがそれぞれに同じような軌跡を描いて同じ場所に戻ってくるというような話を昔聞いたことがある。実際はどうだがわからないが、もっともらしい話だ。

星座や星の運行の知識、地形学と地理、気象学、砂漠にすむ生物の生態などを知っている人は無事砂漠を抜けられる。

砂漠に迷う人を侮るなかれ。彼らもまた人生をかけて一歩一歩と歩みを進めるのである。

だがそれがたぶん哲学というものの限界だと思う。

ベルクソンを読むと思い浮かべてしまうのは、砂漠で迷う人である。


時間と自由 』 アンリ・ベルクソン


松岡正剛氏は、千夜千冊でこの本について熱く語っている。

21世紀になったいまだにベルクソンの亡霊に囚われているようで、『物質と記憶』にせよ、この本にせよ、小林秀雄の影響というよりは、この千夜千冊で「ベルクソンってなにものだ?」ということで買って読もうとしたのである。

「小林の哲学の70パーセントはベルクソンである」ということだが、70%の理由がよくわからない。

そういう言葉もひっかかっていた。


はっきり言って、挫折した。

正剛氏のような愛情が抱けなかったからである。

現代の科学の発展を知ったうえでは、ベルクソンに愛情を抱かなければこれらの『古典』は読めない。

以下は、ふんぎりをつけるための個人的な感想である。

これをもってベルクソンについて書くのも読むのも終了。

時間と自由 (岩波文庫)/ベルクソン
¥735
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彼の、『物質と記憶』へいたる「時間」、「持続」、「記憶」に対する哲学の旅はこの本から始まる。

彼がもし現在の脳科学や認知科学を知っていれば、こんな回り道をしなかったであろう。

時間、持続、記憶の概念は、彼が頭のなかでこねくり回してつくったものよりずっとすっきりとした形ですでにそのあたりより提出されている。


時間とは記憶のある側面と確かな自己の概念に基づいた、人間の心による抽象的構造物である。


彼は物質にしろ時間にしろ、物理的な対象物と人間の心に線引きをしない。あるいは線引きができなかった。

多くの哲学者と物理学者を分ける生命線はそこにある。その線は砂漠で生死をわける線とつながっている。


時間とは物理的な事象であり、主観的な事象でもある。物質も同じ。

それらが持つ二つの側面は分けて考えなくてはいけない。

実はそれを分けて考えないことが、逆に多くの哲学者の生命線であったりもする。

そういう地平から何がみいだせるのか。明日の太陽が拝めるのかは神のみぞ知るというところだろう。


すくなくとも、現代人が先人の轍を踏むことがないように砂漠でくたばってくれたのだと解釈しているのだが、それでも砂漠へ歩みだしてしまうというのが生の業というものだ。


ベルクソンを読むと思い浮かべてしまうのは、砂漠で迷う人である。

しかしながら、砂漠で迷う人の足取りは、それは、みごとな文学で彼の人生そのものだ。