ラプソディ。狂想曲、もしくは狂詩曲と訳すのか。昔は狂想曲だった気がするのだが。。
ラプソディとは、自由奔放でありながら、叙事詩的で民族的な色彩を持つ音楽らしいのだが、なぜかもの悲しい。
中学生のころは、狂騒曲だと思っていた。自由奔放なところで、騒ぐという字だと思ってたのだろうか。
そんなかんじでありながら、何故どこかしら物悲しいのか。
ハンガリー狂詩曲とかもそうなのだが、最初にそのかなしさに気づいたのが、クイーンの『ボヘミアン・ラブソディ』だった。
フレディー・マーキューリー自身にもどこかそういうイメージが付きまとっていて、この曲を最初に聴いたのはTVのライブ映像でだったのだが、彼の姿とその曲があまりにオーバーラップしていて、曲のかげにひそむなんともいえない悲しい気持ちに自分も同化してしまったような気がしたのを覚えている。
悲しみに耐えることができるのは、若者の特権であると誰かが言っていた。
彼が言った悲しみとは、そんなふうなもの悲しさであろう。ラプソディーの悲しみは、どこかしら思春期の悲しみにも通じているのだろうか。
スカーレット・ヨハンソンの横顔は、どこか故郷をはなれた人の悲しみを湛えているような気がする。
彼女の魅力は、そのもの悲しさにもあるように思える。
ただ乳がでかいだけでなく
『ロスト・イン・トランスレーション』を見た後、知人に勧められてみた映画だが、ヨハンソンの素材としてのそういう魅力は、異邦人としてのキャストでことに良く現れる。そんなふうに思える。
20代の前半は、妹がロンドンに留学していたこともあり、自然と意識もヨーロッパのほうに向かった。海外旅行もはじめて行ったのはロンドンだった。まだ、ソ連の上を飛べないためにアンカレッジ経由だった。
その頃には、ヨーロッパがなんとなく持つ物悲しさに耐えられたのだが、今はもう自分の嗜好も変わってしまったようだ。
そんな風に変わるなんて、その頃は少しも思わなかったのに。。
ブタペストの街並みがきれいだった。映画を見て、なぜか心に残ったのはその風景だった。
印象に残るのはやはりドナウ河のせいだろう。ロンドンにはテムズ河が、パリにはセーヌ河が街の中心を貫いて流れている。
ロンドンでゆったりと流れるテムズ河の河の流れのそばを歩いていると、なぜか自分がどこか遠いところにいることを強く意識した。そんなふうな気がしたことを今となれば思い出す。なぜかわからない。
テムズ河は、ウィンザー城やハンプトンコートあたりのちょっと上流のほうも、ロンドン塔からタワーブリッジを経てさらに河口のほうも船に乗ったことがあるが、なぜか上流の方は昼のイメージが、河口のほうは夕方のイメージが強い。
船に乗った時間がそうだからなのだけれど、そういう時間帯にそういう場所へ行くというのはなにか旅を思い出深くするためのメソッドのような気もする。
なかなか、そうは思い通りにいかないところがたぶん逆に旅の面白みだったりするのかもしれないが、その時間帯に「当たりの場所」っていうのは確実にあるような気がする。
若い頃は場当たり的な楽しみのほうが勝つのだけど、年食ってくるといいとこ取りをしたくなってくる。なんだかなあ。。
それぞれの河にも、それぞれの時間帯というのがあるような。
ガンジス河はたぶん朝だろう。セーヌ河は昼かな。夜もいいのだけれど。イスタンブールは、河じゃなく海峡だけど、夕方のモスクに映える夕陽とかきれいだろうなあ。
そんなことを考えてたら、物悲しいとかどうとかもふっとんで、どこかに行きたくなってきた。