ベルクソンが残したもの
砂漠で迷う人は、それぞれがそれぞれに同じような軌跡を描いて同じ場所に戻ってくるというような話を昔聞いたことがある。実際はどうだがわからないが、もっともらしい話だ。
星座や星の運行の知識、地形学と地理、気象学、砂漠にすむ生物の生態などを知っている人は無事砂漠を抜けられる。
砂漠に迷う人を侮るなかれ。彼らもまた人生をかけて一歩一歩と歩みを進めるのである。
だがそれがたぶん哲学というものの限界だと思う。
ベルクソンを読むと思い浮かべてしまうのは、砂漠で迷う人である。
『時間と自由 』 アンリ・ベルクソン
松岡正剛氏は、千夜千冊でこの本について熱く語っている。
21世紀になったいまだにベルクソンの亡霊に囚われているようで、『物質と記憶』にせよ、この本にせよ、小林秀雄の影響というよりは、この千夜千冊で「ベルクソンってなにものだ?」ということで買って読もうとしたのである。
「小林の哲学の70パーセントはベルクソンである」ということだが、70%の理由がよくわからない。
そういう言葉もひっかかっていた。
はっきり言って、挫折した。
正剛氏のような愛情が抱けなかったからである。
現代の科学の発展を知ったうえでは、ベルクソンに愛情を抱かなければこれらの『古典』は読めない。
以下は、ふんぎりをつけるための個人的な感想である。
これをもってベルクソンについて書くのも読むのも終了。
- 時間と自由 (岩波文庫)/ベルクソン
- ¥735
- Amazon.co.jp
彼の、『物質と記憶』へいたる「時間」、「持続」、「記憶」に対する哲学の旅はこの本から始まる。
彼がもし現在の脳科学や認知科学を知っていれば、こんな回り道をしなかったであろう。
時間、持続、記憶の概念は、彼が頭のなかでこねくり回してつくったものよりずっとすっきりとした形ですでにそのあたりより提出されている。
時間とは記憶のある側面と確かな自己の概念に基づいた、人間の心による抽象的構造物である。
彼は物質にしろ時間にしろ、物理的な対象物と人間の心に線引きをしない。あるいは線引きができなかった。
多くの哲学者と物理学者を分ける生命線はそこにある。その線は砂漠で生死をわける線とつながっている。
時間とは物理的な事象であり、主観的な事象でもある。物質も同じ。
それらが持つ二つの側面は分けて考えなくてはいけない。
実はそれを分けて考えないことが、逆に多くの哲学者の生命線であったりもする。
そういう地平から何がみいだせるのか。明日の太陽が拝めるのかは神のみぞ知るというところだろう。
すくなくとも、現代人が先人の轍を踏むことがないように砂漠でくたばってくれたのだと解釈しているのだが、それでも砂漠へ歩みだしてしまうというのが生の業というものだ。
ベルクソンを読むと思い浮かべてしまうのは、砂漠で迷う人である。
しかしながら、砂漠で迷う人の足取りは、それは、みごとな文学で彼の人生そのものだ。