『在日』 姜尚中
横浜に住んでたとき、アパートの裏側に在日の人たちの居住区があった。
バラックなんかも確かにあったけど、普通の民家が軒を連ねていた、そういう場所だったのだけれど。
あたりをチェックすることもなく、部屋と駅までの道をチェックしただけで、アパートをとりあえずそこに決めた。
移ってから最初の休日に、「そうだ、あたりを散歩しよう」と歩いていたときに、知らないうちに風景が変わっていた。
家々の生活臭が日本のそれと違っていた。
昭和40年代に逆行したようななつかしい感じ。軒を連ねると書いたけれど、まさにそれぞれの家が寄り添うように立っていた。洗濯物が家の前に干されていたり、軒先に長いすがあったり。
道は舗装されていない土の路地だった。
そういう加減もあって、知らない間に人の家の庭の中に迷い込んでしまった気がした。表札をみると日本の人の苗字ではない家々が続いていた。
怖くなって、入り組んだ路地をひたすら戻った。
なんだかひじょうに悪いことをしているような気持ちと、もしかしたらそこに自分が生まれなかったことに安堵する気持ちも裏にあったのかもしれない。
そういうものがないまぜとなって襲ってきたから怖くなったのである。
いまでも、それを象徴するような夢をみる。知らないうちに、そういう土地に入り込んでしまう夢である。
- 在日 (集英社文庫 か 48-1) (集英社文庫 か 48-1)/姜 尚中
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TVで見ている限り、姜尚中氏の語り口は静かで、冷静に状況を分析し言葉を選びながら慎重に意見を述べられる。そんな語り口に惹かれて、この本を買ったのだけれど、彼の内部は実は非常に激しい人だった。
政治思想というものは実際のところよくわからない。
構築されたモデル自体に意味があるのか実効性があるのかが自分にはまったく見えないからなのだけれど、確実に政治のダイナミズムは生活に光と影をもたらすことはわかる。
その光と影があまりにも強烈だった。
そういう境遇を、いやおうなく子供時代、少年時代に過ごしたら、その仕組みを知りたい、実効性のある政治とはなんなのか、自分で見極めてそれに参与したいと思うようになるであろう。
そういう日本の陰の部分で育った人たちの心の中を垣間見る機会はこれまでなかった。
どこか目をそむけていたような、そんな気がする。
それに対し、激しく「NO」を突きつけられた。
「目をそむけるなんて許さない」、そんなことは彼は面と向かっては言わないと思うのだけれど、政治的に虐げられてきた人はいるのだと。
「知らないで済ますことなど出来ない、それをまず知って欲しい」と言われているようなそんな気がしたのである。
彼の政治思想はわからないけれど、そういう人たちは日本に少なからずいるし、彼らと友達になったり、彼らの隣で生活するには、彼らのそういう気持ちにも、自分のそういう気持ちにも蓋をして目を背けることはなどできないのだと。
そういう意味で、自分にとっては内容以上に衝撃的な本であった。
ずいぶん前に買って、ブログにも感想を書くとかいてたのだけれど、
http://ameblo.jp/aimis-u/entry-10082335121.html
『空港にて』と違い、自分の中のなにかを整理して文章にするのにずいぶん時間がかかってしまった。
ゆらぎの幸福
名古屋、今日はいい天気ですた。
どうも行楽日和っていうのがあって、そういうのは波のようにやってきて人をさらって行くらしく、今日のジムは人がやけに少なかった。
「脳のゆらぎ」なんて言ってたのはどうも本当にあるようで、そういうのはその日の天気とか気圧に影響されてるんじゃないのかなんて思ってしまう。
みんなの矢印がいっせいにそっちを向いちゃうってことがある。小魚の群れみたいに。
なんか、「どっかに行かなくちゃ」というそわそわ感がみんな一斉に起こっている。
そんな感じが朝からしていた日だった。
それは自分がそうだったからそう思うのだけなのかもだが。
そんな感じの日だったので、マスターズの練習会も人が少なく、どうも手持ち無沙汰なのは皆同じな感じで、練習が終わった後、「飲みに行きますか」フラグが、そういう気配に敏感な例の支店長の顔に立っていたのだけれど、そうそう二人で行っても話すこともないので、フラグを見なかったことにしてしまった。。
子供のとき、旅行先の釣堀でマスつりをした。
釣堀といっても、本格的なものでなく、当時観光地によくあった釣堀で、小さな池にマスが離されていて、子供でも簡単に釣れる。
竿も貸し出しで、女竹に釣り糸と釣り針がついた簡単なもので、浮きすらついてない。
魚は目の先で泳いでいるので、えさを取りに来るのも見えるから浮きもいらないのだけれど。
そこで、一匹のマスが自分のえさに寄ってきた。小さなマスだった。
当時欲が張っていたのかもわからない。
なにを思ったか、そのマスが鼻面をえさにつけようとしたその瞬間に、糸を引き上げてしまった。
そのマスはいったいそのときどう思っていたのだろう。
餌を引き上げた瞬間、どっかへ行ってしまった。
時間制だったのだが、その後いくら待っても一匹もマスが自分の餌に近寄ることはなかった。
母親はその様子を見ていたらしく、あとで「なんでマスが来てるのに糸をひきあげたのか」と怒ったのだけれど、そのときにそう思ったので仕方がない。
彼女が言いたかったのは、ものにはタイミングというものがあるということだったのだろう。
それを逃すと二度とチャンスは巡っては来ない。
そういうのは、知識なんていうものの埒外に存在する。
なので、彼女は説明する言葉を持たなかったし、説明なんてできない。これからもずっとそうだろう。
体験しないとわからない、身体でしか覚えられないものっていうのは、いつの世でもどうしても存在する。
今の脳科学を見ていて、未来永劫にわたってそんなことは解明されることなどない。そういうことはわかる。
それもまたカンというやつなのだが、果たして幸福はどちらの手により近いのだろうか。
結局は、それもゆらぎ次第だったりするのかも知れない。
ってか、そういうゆらぎがあるから幸福だということにはあまり気がつかなかったりする。
さて、今日の汚名を挽回するチャンスは訪れますかねえ。
眠る盃
向田邦子さんが、「思い出は一番最初に思い出したものが良くて、二度三度と思い出すと鮮度が落ちる」っていうことをどっかで言っていた。
エピソード記憶の性質として『音楽と記憶』(前述 )にそれを説明する文があったので、「こりゃいいや」と。
それを記録しておくために、「果たして向田さんのどの本で見たかな」としばらく持ってる向田さんの本を何冊かをひっくり返していてやっと見つけたら、こんな内容だった。
見つけたのは『眠る盃』の「ツルチック」の中だ。
- 眠る盃 (講談社文庫)/向田 邦子
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ツルチックというのは、彼女のお父さんが出張先で手に入れてきた一升瓶の中に入った飲み物の名前で、家族を呼び集めたお父さんは、それをコップに四分の1ほど注ぎ分け、お母さんが薬缶の水を加えて、それを皆で飲んだのだが、向田さん、世の中にこんなおいしい飲み物があったのかと思ったと。
それ以降、向田さんはその飲み物のことを何人かに尋ねたのだが、
その度に、三十二年前の記憶を繰り返す破目になったが、話す度に少しづつ潤色していることに気がついた。思い出に加筆修正するほど勿体無いことはない。
思い出にも鮮度がある。一瞬にして何十年かさかのぼり、パッと閃く、版画で言えば一刷が一番正しく素晴らしい。私の「ツルチック」も古証文を書き直すように記憶の日付だけ書き改めて、判らないものは判らないなりにまた記憶の底に仕舞い直そう。
という文だった。この文を探しているうちに結局、『父の詫び状』も、この『眠る盃』もほとんど目を通すことになって、エピソード記憶のことなぞ、書く気もなくなった。
とはいえ、それじゃ記録にもならないので書いておくと、エピソード記憶というのは、個人の日常生活の中でそのとき起こっていることについて、それぞれの時間配列と場所で生じた特定の経験、事象の記憶を言う。
このエピソード記憶、回想の繰り返しが行われる場合は、ひじょうに歪曲されやすい。
というのは、その回想の度に、回想自体が1つのエピソード記憶として記憶され、それらの区別がつかなくなるためであると。
また、エピソード記憶と意味記憶は深く結びついていて、意味記憶によって脚色されたり、平均化されたりする。
意味記憶というのは、我々が多くの事前の経験によって形成した知識のカテゴリーであって、知識といってもそれは個人的な価値観や規範で彩られた知識のカテゴリーで、自分に対してどういう符号化をしているのかは人それぞれである。
そういう意味記憶によって、エピソード記憶は安定し、エピソード記憶の詳細は、カテゴリーに統合されていく。
その過程で、エピソード記憶自身もカリカチュアライズされる。
だが、こんな知識がいったい何になるのだろうと、向田さんの文を読んでいて思ったのである。
信じていることは信じていることでその人のなかで文脈をもっている。
とくに向田さんみたいに豊穣な記憶をもった人に対しては、こんな知識に意味などないし、向田さんの場合、こういう知識すらご自身でご存知で、なにもそれは向田さんに限ったことではあるまいと。
私の父親と妹は、まったく「さもあったことを、さもあったように」話すタイプで、かなりいい加減だったりする。
そう、実際には「さもなかったり」するわけである。
しかも自信家なので、ときどき話していてイラッ
とする。
まあ許容できる範囲は流して聞こうと思うのだが、実際の場面では「こんな知識に意味などない」なんてことすら自分にとって意味などなく、やはりイラッとしてしまうのである
実は、親子、兄妹なので血はけっこう争えない。
自分も「さもあったこと」タイプだなんてことすらすっかり忘れてしまっているのである。
どうやら、私の場合は、意味記憶もかなりやられちまっているらしい。
やれやれ。
Writing in the diary
日記じゃなくて
P.T.P ![]()
あいかわらず、無駄に写真でかいので携帯の方はクリックしないようご注意を。
昨日の日記で片方は見えてましたが。。当然、買いました。
『Writing in the diary』
完璧路線変えてきました。
どうやら、狙ってます。(何を?)
CD&DVDです。1440円@amazon(画像なしだったので貼り付けず。CD:3曲 DVD:PV+ライブ映像3曲)
狙うんだったら、DVDは新曲PVだけでもよかったのに。そのほうがコンセプトがしっかりしたハズ。
ELLEが、『RIOT ON THE GRILL』で完全ブレークしたのだけれど、PTP もこれで完全に別物になる予感。
彼ら、SUMMER SONIC に出るみたいです。
そこが、ターニングポイントになる![]()
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まさにこのCD&DVDが、勝負みたいなもんです。
8月以降のライブスケジュール、OPEN状態みたいだからなあ。
SUMMER SONICでかかったら、Zeppツアーになだれ込みそうな…。
●Yahoo!! 動画『HEAVY ROCKS!!! Japan - Powered by Vap -』
ビデオクリップオンエアー中!
http://streaming.yahoo.co.jp/p/t/00193/v00673/
だそうです。
新曲の「Out of my hands」はここで見れます。
売れるっしょ、これなら。
つーか、ホントはあんまし変わってほしくはなかったのだけれど。。
あの路線だと、どーしても日本じゃメジャーにはなれんからなあ。
実力あるから、このままじゃ、宝の持ち腐れになっちまいそうなのでしょうがない。認めてやる。
何様!
でも1枚目のCD&DVD『Drop of INK』がやっぱり一番だす。まだ、持ってませんが![]()
あとは、こないだの「Paralyzed ocean」。同じく写真右のアルバムのタイトルにもなってる「Another day comes」もいい曲なんだが。
アレで売れんか~? 日本、どーなっとるんじゃい。
つーか、一昨日までぜんっぜん知らんかったけど、![]()
Pay money To my Pain
BUY 2 15% OFF
踊らされるなよ。
踊るのは結構好きです。
暑いし
。夏はガードは下がるってもんだす。
パルコのタワーレコードで、
んなシールが貼ってあった。買うときにチラ見してたのだが、にわとりのように3歩歩いたら忘れていた。
レジで、ねーしゃんに「このシールが貼ってあるのを2枚買うと15%引きです」と申し訳なさそうに勧められた。
あまりに申し訳なさそうだったので、「じゃあ、探してきます」つって走ったのは、どーすべ?と目をつけていたグループの棚。
目をつけてたヤツにちょうどシールが貼ってあったので、
「ふむ」
とまーいちおう唸って、うなったことで買うほうにスイッチを倒す言い訳とした。
いやさ、知らんのですわ、fishmans。ぜんっぜん知らん
てか、よくブログ読ませにもらいに行っているコたちの間で、なんだか当然のように語られていて。。
「え?なになに?なにそれ?おっさんは知らんぞ。」
というのがあったので気になってたんだよね、基本、好奇心旺盛なので。で、買ってみた。
うーむ、若いな。というか、どっか古くて懐かしいのにあたらしい。
なんだろう、あ、なんかそういう感じの家具ってあるなあと。というかそういう感じの部屋?
70年代をリストアして、まったく新しい感じに仕上げてる。まず、そんなふうに感じた。
学生のときだったら多分はまってた。浮遊感のせいか。流れてんな~って感じ。night cruisingとか。
クラブで流して聴くっていうのがなんかすごく合いそう。
ようつべで探してみたが、映像のほうがいい。baby blueとか抜群によい。
なんで部屋をイメージしたのか映像見てわかった。包まれ感というかインスタレーション感があるんだわ。
ほかにもこういう感じをうける音楽はあるんだけど、フィッシュマンズはフィッシュマンズで特別な感じはそういう意味で確かに。ニュアンスのバリエーションとか。そのあたりが確かに抜けている。
まだ聞き込んでないからわからないんだけど、「ああ、なるほど~」とみょーに納得。


