ゆらぎの幸福 | 象の夢を見たことはない

ゆらぎの幸福

名古屋、今日はいい天気ですた。


どうも行楽日和っていうのがあって、そういうのは波のようにやってきて人をさらって行くらしく、今日のジムは人がやけに少なかった。


「脳のゆらぎ」なんて言ってたのはどうも本当にあるようで、そういうのはその日の天気とか気圧に影響されてるんじゃないのかなんて思ってしまう。

みんなの矢印がいっせいにそっちを向いちゃうってことがある。小魚の群れみたいに。


なんか、「どっかに行かなくちゃ」というそわそわ感がみんな一斉に起こっている。

そんな感じが朝からしていた日だった。

それは自分がそうだったからそう思うのだけなのかもだが。


そんな感じの日だったので、マスターズの練習会も人が少なく、どうも手持ち無沙汰なのは皆同じな感じで、練習が終わった後、「飲みに行きますか」フラグが、そういう気配に敏感な例の支店長の顔に立っていたのだけれど、そうそう二人で行っても話すこともないので、フラグを見なかったことにしてしまった。。


子供のとき、旅行先の釣堀でマスつりをした。

釣堀といっても、本格的なものでなく、当時観光地によくあった釣堀で、小さな池にマスが離されていて、子供でも簡単に釣れる。

竿も貸し出しで、女竹に釣り糸と釣り針がついた簡単なもので、浮きすらついてない。

魚は目の先で泳いでいるので、えさを取りに来るのも見えるから浮きもいらないのだけれど。


そこで、一匹のマスが自分のえさに寄ってきた。小さなマスだった。

当時欲が張っていたのかもわからない。

なにを思ったか、そのマスが鼻面をえさにつけようとしたその瞬間に、糸を引き上げてしまった。

そのマスはいったいそのときどう思っていたのだろう。

餌を引き上げた瞬間、どっかへ行ってしまった。

時間制だったのだが、その後いくら待っても一匹もマスが自分の餌に近寄ることはなかった。


母親はその様子を見ていたらしく、あとで「なんでマスが来てるのに糸をひきあげたのか」と怒ったのだけれど、そのときにそう思ったので仕方がない。


彼女が言いたかったのは、ものにはタイミングというものがあるということだったのだろう。

それを逃すと二度とチャンスは巡っては来ない。


そういうのは、知識なんていうものの埒外に存在する。

なので、彼女は説明する言葉を持たなかったし、説明なんてできない。これからもずっとそうだろう。

体験しないとわからない、身体でしか覚えられないものっていうのは、いつの世でもどうしても存在する。


今の脳科学を見ていて、未来永劫にわたってそんなことは解明されることなどない。そういうことはわかる。

それもまたカンというやつなのだが、果たして幸福はどちらの手により近いのだろうか。

結局は、それもゆらぎ次第だったりするのかも知れない。


ってか、そういうゆらぎがあるから幸福だということにはあまり気がつかなかったりする。


さて、今日の汚名を挽回するチャンスは訪れますかねえ。