稽古は回数を重ねれば上手くなるわけではない。上達しないのは低レベルの稽古を繰り返しているからかもしない。現実はその道場の環境に左右される。師範のレベルが高いこと、先輩のレベルが高いほど違いが出てくる。剣や杖、短刀は稽古には必須アイテムです。もし、常備されていないとしたら、良い環境とは言えません。合気道は複雑な理合いで構成されている。ただ真似をして繰り返すだけでは上手にはならない。本気で上手になりたいと思うならば常に課題を持つこと。競技スポーツ選手は上を目指してより良い指導者を選んでいる。希望の大学を目指す人は良い環境の高校を目指す。ただ闇雲に稽古をすれば上手になると言う錯覚はすてるほう良い。合気道の良いところ、それは良い先生でも悪い先生でも月謝にさほどの違いが無い。良い状況が無い人は自ら教室を開いて教えながら探求する方法もある。情報過多の現代はできうる限りの情報を仕入れてとりあえず本当か偽物か選別することも良い。「教えることは教さわること」と言う言葉もあります。条件さえ整えばぴょんぴょんと跳ねることも可能です。今年はウサギ年です。
合気道の稽古には反撃されること気づかないで稽古をしている場合があります。道場の稽古で師範の技に対して隙(すき)を感じて返すわけにはいきませんので素直に力を抜いて応えます。これを続けていると道場稽古(実際には護身術、武術として使えない、道場内だけ通用する稽古のこと)と揶揄されてしまいます。返されない技(ただし危険な技で無いこと)が本物の技です。返されないか、返されるか確認して、返されない技を探求することが大切だと思います。
相手がいないと稽古にならない。道場生にかかる技が初心者にかからなくてあたふたして、受け方について熱弁をふっっているベテランをよく見ました。稽古は受けと取りがあって成立する。初心者に技がかからないのも自分を攻めれば道が開けるはずなのに、従順な相手を選びたくなる。稽古はお互い様、たとえ後輩でも相手に敬意をもてば不遜な態度はとれなくなる。
古武道では撞木足と言う足の型があります。簡単に言うとハの字の足型から片足を少し出すと撞木の足型になります。前進する時は親指の付け根を畳にねじ込むようにします。足のふくらはぎは第二の心臓と言われ血液を押し上げるポンプの役が中心なので、前進するときはふくらはぎを使わないほうがより楽に前進できます。邪魔なふくらはぎを避けて進むためには撞木足で親指の付け根を畳にねじり込むようにすると「身体の上下運動、前進動作等ぶれない体勢が生まれると思います。合気道の動きと能の動きが近いと言われますが確かに能の所作には上下運動はあまり見られないかもしれません。
合気道は、呼吸力鍛錬方の稽古として素振りはとても大切でと言われています。剣を持つ練習が重要視されていないのは、合気道が新興武道としての印象を抱かせるための宣伝効果をねらったものだと言う人もいますが、木刀の握り方、素振りの仕方、四方切り、八方切り、足捌きなどが一人稽古で大切です。現在は体術さえできれば良いと考える師範が増えています。合気道は手刀同士でくんで、ことさら難しく稽古をする方法を取らなくても、正しい剣の操方を知っていれば、合気操方は簡単に学ぶことができる初心者向けの技法です。剣の構えの基本がそのまま一教の構えです。手刀から始めるより、剣から稽古を始めたほうが合気道に入りやすいと私は考えています。
合気道の稽古は受けに自分に都合の良い注文をつける(魔法の言葉)が横行しがちです。例えば片手取りを例にとると、手首をぴったりと握って離さないで力まないで素直について来いといったり、私の気持ちを感じ取って忖度しなさいと受けに都合のよい注文をつけるのは魔法の言葉ということです)。現実における戦いにおいて攻撃相手に自分の都合のよいように注文をつけることはありません。合気道の稽古は型の反復ですから型稽古としての決まりが当然存在しますが取りがいかに受けに合わせるかを通して理合を学びます。目的の型稽古を成立させるためには受けは受けの条件に則ります。片手首取りの時に頭を下げて前足からいきなりつかんだのでは目的の型稽古は成立しませんので姿勢はその稽古に即した形で正しくしっかりとした攻撃に徹しなければなりません。遠慮して軽く握る人やきつく握ったまま動きのない人がいますがそれでは稽古にはなりません。受けに対する指導は多くはありませんが型稽古なので守らなければいけません。稽古の型の正しい指導は「魔法の言葉」とは違います