喜劇 眼の前旅館 -7ページ目

喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

「先生、吉田君が風船です」椅子の背中にむすばれている  我妻俊樹


連作「水の泡たち」より。元は2004年にニューウェーブ短歌コミュニケーションというイベントで、前年度の歌葉新人賞候補者による公開歌会という出し物がありまして、その歌会に出詠した歌。やはりこのとき出詠してのちに「水の泡たち」に入れた歌がもうひとつあります。


さようならノートの白い部分きみが覗き込むときあおく翳った


なぜそうなったかは全然憶えてませんが、どちらも学校を思わせる風景の歌ですね。二首とも当時かなり自分で気に入ってる歌だった記憶はある。学校が舞台、ということ以外は何もかも対照的な歌だと思い込んでたけど、今あらためて読み返すと「吉田君」と「きみ」の存在のしかたというか、不在のしかたというか、そこが何となく似ているかなという気がする。ノートのページを翳らせる青さとしての「きみ」と、椅子にむすばれた風船としての「吉田君」。影と身代わり。変化と変身。
落葉にぎりつぶす音でもないよりはましな二人の遊ぶ静寂  我妻俊樹


文学作品では果たして「静寂」を描くことができるのでしょうか。
現実には静寂といっても本当に無音の状態というのはないので、冷蔵庫のモーターのうなりとか、鳥の声とか、自分の内臓の音とか、かすかに何か聞こえてるわけです。だから文学作品が「静寂」を語りつつその語る声自体をその場に響かせ続けてる、という矛盾はそう気にならないのかもしれない。
または、文学作品は黙読されるものなので、そこで語っている声は心内語のようにじっさいには耳に響かないと考えるから矛盾を感じないのか。
以上、この歌とはあまり関係ありませんが。連作「実録・校内滝めぐり」より。


はだかでもスリッパ履いてゆくトイレ 窓のむこうの壁はあかるい  我妻俊樹


たぶん、起こっていることの時間的・空間的な把握としては「はだかのままスリッパだけ履いてトイレに行こうとしたら廊下の(トイレの?)窓から外の建物の壁が見えて、窓から漏れる明かりがそこに当たってあかるかった」みたいなひとつながりの流れで読めるんだけど、それがいくつかの短歌的な歪みにさらされてる。そのノイズにどういう態度を取るかが読みどころになるといいなあ、という歌だと思います。
口語短歌にどうノイズを含ませるか、歪ませるかと考えたとき、口語そのもののノイズ性や歪みを定型が懐ふかく保存してくれる、という期待にはちょっとやばいところがあるなと思う。口語にとっては逆に短歌定型がノイズだし歪みなのであり、口語と短歌はけして分かり合えることはないはずで、両者の関係はだからつねに偽装結婚なのです。と思うから。
題詠blog2008、お題「スリッパ」より。
いただいた早稲田短歌にちょっと前ツイッターで話題というか、論議の的になっていたこの歌も掲載されていました。

あれは製紙工場からの煙なんですみんなが上に行く用でなくて  山中千瀬

この歌のいいところは「何かすごく気になるものが見えてるんだけどそれ以上近づくことができない」みたいなもどかしい状態を読み手に経験させることではないかと思います。
それがただの思わせぶりに終わってないとすれば、近づいて行き止まりになる道の行き止まりそのものが充実しているということでしょう。たとえばツイッターで土岐友浩さんが指摘していたように「製紙」が「生死」と同じ音であること。それはまた「製死」という存在しない単語を呼び込もうともしますが、言葉の表面の意味としては製紙工場のものであるとはっきり語られている煙が、下句で否定のために持ち込まれたはずの「みんなが上に行く用」=火葬場の煙という連想によってさかのぼって“死にまつわる工場”という読み替えへと読み手を誘っている。「~用」という言い方も「業務用」「従業員用」などエレベーターを連想させるので、火葬場は実際には存在しないのに、エレベーターで「上」に運ばれる死者というイメージがここに実在する「工場」と結びついてしまうことで「生死(製死)工場」として歌の裏側から滲み出てこようとするわけです。
初句が「あれは製紙」で割れるところも「セイシ」という音に注意を向けさせることになっていると思う。絶対にそうは言わない(おそらく事実そうではない)にもかかわらず、「あれは火葬場の煙なんです」ということを必死に伝えようとしているかのような歌、だと感じました。それは話者がではなく作品が、話者の無意識であるかのように語ってくるわけですね。
幻想を幻想として呈示するのがなぜ駄目かというと、それだと受け手とのあいだであらかじめ合意の取れている「幻想」しか作品に存在できないからです。いかにも「幻想的」なものを作中に示すことで、受け手がそこに正確に「幻想」を読み取る、という閉じたやり取りの中でしか「幻想」を確実に受け渡すことはできない。しかし「確実に受け渡すことのできる幻想」はすでに「幻想」ではないという矛盾が生じてしまい、この矛盾への鈍感さが「幻想的」な作品を支える条件になってしまうということです。
われわれが、それがどんなものであれ受け取るしかない、理解できなくともそういうもなのだとあきらめてひとまず受け入れ、解釈は後回しにしておこう、といった態度をとれるのはほぼ「現実」と「言葉」に対してに限られていると思う。
それはわれわれの生存の最ものっぴきならないところに突きつけられているのが「現実」と「言葉」だからですが、「幻想」がこれらに目隠しするように前面に現れてくる場合、それはわれわれの生存と無関係な場所への誘いとなります。しかしわれわれの生存と無関係な「幻想」は模型のような安全なものであり、「幻想」そのものではない。のっぴきならない「幻想」は「現実」や「言葉」の姿をしてあらわれてくるものであって、自ら「幻想」を名乗ることはないし、すべての人に届けられるものでもないわけです。