落葉にぎりつぶす音でもないよりはましな二人の遊ぶ静寂 我妻俊樹
文学作品では果たして「静寂」を描くことができるのでしょうか。
現実には静寂といっても本当に無音の状態というのはないので、冷蔵庫のモーターのうなりとか、鳥の声とか、自分の内臓の音とか、かすかに何か聞こえてるわけです。だから文学作品が「静寂」を語りつつその語る声自体をその場に響かせ続けてる、という矛盾はそう気にならないのかもしれない。
または、文学作品は黙読されるものなので、そこで語っている声は心内語のようにじっさいには耳に響かないと考えるから矛盾を感じないのか。
以上、この歌とはあまり関係ありませんが。連作「実録・校内滝めぐり」より。