電報です と車の窓を叩かれて夜明けに気づくうす青い土地 我妻俊樹
題詠blog2006より「報」の題の歌。
自動車というのは一種の部屋ですが、そこに人が訪ねてくることはまずありません。窓が叩かれることがあっても、それはいわば車そのもの、または車が明示している商売等に用件がある人(駐車位置を移動してほしい、乗せてほしい、焼き芋を売ってほしい等)であり、自宅にいる人を訪ねるように人が来ることはないわけです。
だからもし「電報です」の声とともに車の窓が叩かれる、しかも夜明けの時分に、という場面が描かれれば、それは「自宅に(電報ですといって)人が(夜明けに)訪ねてくる」のとくらべてずっと稀なことが起きていると感じられる、ということは前提となります。
でもたとえば「飛んでる飛行機のドアが外から「電報です」とノックされる」みたいなありえなさが、ありえなさすぎてかえって何でもありになって緊張感が失われる、という事態はここでは避けたいわけですね。ファンタジーのほうへ箍を外したくないというか。
場面を特殊さ、ありえなさのほうへ限定していくことと、いったん絞り込まれた可能性がそこからふたたび紐を解いて広がっていこうとすること。その二つの力の関係のバランスが、どれくらいうまくいってるかはともかく、気にかけられている歌だとはいえるでしょう。
「これは幻想です」と呈示されたらそれはもう幻想ではないと思う。「これは現実です」または「これは言葉です」しか短歌には(あるいは短歌に限らず)呈示の仕方はなくて、「幻想」はあくまで「現実」と「言葉」の間に事後的に発生するものでしかないと思う。
よく視える瞳は渇く青空のこまかな疵さえも痛がって 我妻俊樹
人間は奥行きを見つめるとき、そこに自分の内部の奥行きを投影するくせがあると思う。だから奥行きのない表面を見つめると、自分の内部も消えて自分がただの表面になった気がして呼吸が苦しくなる。
空の奥行きは浮かんでいる雲によって測るものなので、雲ひとつない空は奥行きのない空です。その輝く表面ぶりは見つめる私の表面を私そのものにする。つまり空とじかに接している部分である瞳が私の全身にゆきわたることになり、空で起きていることが私の全身を使用してもう一度起きるのです。
題詠blog2008、お題「渇」より。
人間は奥行きを見つめるとき、そこに自分の内部の奥行きを投影するくせがあると思う。だから奥行きのない表面を見つめると、自分の内部も消えて自分がただの表面になった気がして呼吸が苦しくなる。
空の奥行きは浮かんでいる雲によって測るものなので、雲ひとつない空は奥行きのない空です。その輝く表面ぶりは見つめる私の表面を私そのものにする。つまり空とじかに接している部分である瞳が私の全身にゆきわたることになり、空で起きていることが私の全身を使用してもう一度起きるのです。
題詠blog2008、お題「渇」より。
超短篇歌物語「ヌカとルミ(さかさまのシャツの従姉)」。
場所も移動して一年以上ぶりに「二十九話」をアップしました。
http://torihazuseruatama.blogspot.com/
(当ブログでの「全短歌」にしてもこの「ヌカとルミ」にしても、要は自分の短歌と文章をどう和解させるか、という同じことしてるんではという気がする。和解を夢見る方向としては正反対ぐらい違うけど。「ヌカとルミ」は短歌と文章それぞれのもっとも儚いところを一瞬理解しあう、みたいなことを凍結したい形式としての歌物語、みたいな感じ)
場所も移動して一年以上ぶりに「二十九話」をアップしました。
http://torihazuseruatama.blogspot.com/
(当ブログでの「全短歌」にしてもこの「ヌカとルミ」にしても、要は自分の短歌と文章をどう和解させるか、という同じことしてるんではという気がする。和解を夢見る方向としては正反対ぐらい違うけど。「ヌカとルミ」は短歌と文章それぞれのもっとも儚いところを一瞬理解しあう、みたいなことを凍結したい形式としての歌物語、みたいな感じ)
時間かけて長い記事を書いてるあいだに勝手にログアウトさせられてて、ようやく書き上がって記事の投稿ボタンを押すとログインしろっていわれ、ログインしたらせっかく書いた長い記事は跡形もなく消えてる。
という経験がしたい人はgooブログを始めましょう。
という経験がしたい人はgooブログを始めましょう。
寒がりのくせに毛布は嫌いだと 葉巻のように歯を立てる笛 我妻俊樹
連作「案山子!」(『風通し』その1)より。
この歌、とくに下句の意味が取りにくいと『風通し』誌上の合評でいわれてるのですが、一字空けをうまく利用して、読む体勢を立て直すとうまく読めるのでは? と作者からのアドバイスを、過去に向かってテレパシーで送っておきました。
連作「案山子!」(『風通し』その1)より。
この歌、とくに下句の意味が取りにくいと『風通し』誌上の合評でいわれてるのですが、一字空けをうまく利用して、読む体勢を立て直すとうまく読めるのでは? と作者からのアドバイスを、過去に向かってテレパシーで送っておきました。