喜劇 眼の前旅館 -9ページ目

喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

まず雨にうたれた 白線をこえた おまえが投げわたす春菊は

はなやいでゆくあてもなく砂利道は暇そうに雲とラジオをつなぐ

こめかみに星座のけむる地図の隅にたずねる公園ほどの無意識

灯はさすよ祈りのかたち残す手や疑似餌のようにうかぶ靴にも

みずたまりにしばらくうつるスピードの乗り物でする世界旅行を

終バスのポールにすがる〈盗賊〉という字のネオン・サイン浴びつつ

ひざにのせたキャベツに話しかけるのは判決のようね澄んでいく骨

自由通路を使い物にならなくして南北がまるで仇名になる

なくしたね いつかは家庭菜園のまっ赤にうれたにがうりの種

かけらでも枇杷だとわかるほどの濃いにおいがきみのてのひらでした


題詠blog2010 001~010 )
9:01開始

肺と同じすごろくを書いた三十八歳くらいの母親の人形があります
一年が道路の場合五十三メーターに相当するマラソンのための町です
テレビから出られないうさぎに字の中でいちばん赤いものを与えます
風船へ書いて割れるまでふくらますだけの息が残ってればいいです
何万年も野球のことだけ聞かされてきて生まれたから行政書士です

9:22終了
消えてった輪ゴムのあとを自転車で追うのだ君も女の子なら  我妻俊樹


連作「ペダルは回るよ」(『短歌ヴァーサス』第11号)より。
「輪ゴム」と「自転車」がどっちもゴムを材料(の一部)に持つ「輪」であるということを踏まえたうえで。

●両者がいろいろな点(大きさ、移動距離、等々)で対照的な「輪」であること。
●前者を後者が「追う」という行為は普通は成り立たない(歩いたほうが早い。飛び続けるものじゃないから「追う」に当たらない、等々)ということ。
●その理不尽な命令を「君」が受けとる理由が「女の子」だからであるということ(さらなる理不尽)。
●その理不尽な命令を発してるのは話者、つまりこの歌自身であること。

といったあたりに読んで意識が引っかかるかどうかはともかく。「自転車で輪ゴムを追う女の子」ってなんかよくないですか? ということですね。SFっぽくないですか。
水族館だった建物 あらそって二階をめざすけむりのように  我妻俊樹


自分の歌とはいえ、書くことはそうないわけです。自分の歌だから書くことがない、というわけではありません。語るべきことは作品にすべて語らせているから何も付け加えることがないです、というタイプの作者では私はたぶんないので、自分の歌もどちらかというと外側から見ている。つまり作品が自分の分身という感じは薄く、いろいろと訳知りの読者といった程度の位置から眺めているのだと思います。
ただ、作者の知っている「訳」などつまらないものだと思う。掲出歌を見ると、そうそう私は建物のことを歌にするのが好きだよね、とか、「けむりのように」っていう直喩は暗に馬鹿ってことをほのめかしてるんだったな。といったことを思い出したり、この年(掲出歌を含む連作は2004年の歌葉候補)あたりが初期の作風のピークだったんじゃないかな、と個人史的な感慨にふけったりするわけですが、こうした頭に浮かぶ諸々は全部で何首かよくわからない、ほとんどはまともに思い出せない自作のひとつひとつにくっきり別な言葉で割り振れるようなものではないわけです。おそらく何十首もの歌から似たようなことしか思い出せない。それは私の記憶力の悪さもあるけど、たぶんそもそも似たようなことしか考えてない頭から出てきたものが、その時ごとの外部の偶然によって違う形に定着しているのが私の短歌なのだと考えられます。
連作「インフェル野」より。