肩に書いたほくろ一つをひからせて西新宿は手を振れる距離 我妻俊樹
ほくろはここでは、本物ではなくて書かれたものだけど、まあふつう書くとしたら黒で書きますよね。それが光っているというわけです。黒い(はずの)ものが光っていると。
黒光り、なんてものがみとめられるにはほくろでは小さすぎる。だからこれは、黒いということと光ってるということの共存、というふつうにはないはずの状態を言ってる、ということは確定できる読みなんじゃないかと思います。
つまりほくろが黒くない(金色とか)または黒なのにインクなどの性質上(例外的に)ほんとに光ってるのか、ほくろそのものが光ってるわけじゃなくほくろの周囲の肌などべつのものが光ってるのをこう言ってるのか、あるいは何も実際は光ってないけど比喩的に「ほくろが光ってる」というふうに言ってるのか。
いずれの読みでも別にかまわない、とはとても言えないと思うんですが、しかしひとつ選んだからほかが跡形もなく消える、というわけにいかないところでこういう表現は成り立つのだと思う。つまりここでは、幽霊はいてもよいという態度がとられてるというか。
題詠blog2009、お題「肩」(未投稿)。
歩いてもどこにも出ない道を来たぼくと握手をしてくれるかい 我妻俊樹
視点の軽い反転(「出る」→「来る」)を読みどころと意識した歌だったと思います。
この歌はまあうまくいってるかなと思いますが、こういう瑣末なところの違和感に何かやらせようって考えると失敗しがちですね。
短歌はかなり細部まで意識して読みとってもらえる、という前提でつくられるものだと思いますが、たとえば極端なこと言うと、つくり手の意識の動きが一文字以下で表現されててもそれは誰の目にも見えないわけですね。その動きは文字の中に完全に隠れてしまう。だから最低二文字以上の組み合わせからしか何も読み取ることはできない。
まあ実際には、一首全体にわたるアクションを前提にしたうえでの最低二文字、ということだと思います。一首でひとつの大きなアクションを見せていて、その流れの中で意味があるかぎりにおいて、二文字間に起きている程度の微細な動きも読み取られる(可能性がある)ということだと思う。
それ以上細かいことしようとすると、印刷で文字がつぶ れるみたいに、ただ真っ黒にしか見えなくなる。もちろんつくった本人には読み取れるんですが、作者ほど長時間一首の中にとどまってしまう読者、というのは普通いないと考えたほうがいいので。
連作「ペダルは回るよ」(『短歌ヴァーサス』第11号)より。
視点の軽い反転(「出る」→「来る」)を読みどころと意識した歌だったと思います。
この歌はまあうまくいってるかなと思いますが、こういう瑣末なところの違和感に何かやらせようって考えると失敗しがちですね。
短歌はかなり細部まで意識して読みとってもらえる、という前提でつくられるものだと思いますが、たとえば極端なこと言うと、つくり手の意識の動きが一文字以下で表現されててもそれは誰の目にも見えないわけですね。その動きは文字の中に完全に隠れてしまう。だから最低二文字以上の組み合わせからしか何も読み取ることはできない。
まあ実際には、一首全体にわたるアクションを前提にしたうえでの最低二文字、ということだと思います。一首でひとつの大きなアクションを見せていて、その流れの中で意味があるかぎりにおいて、二文字間に起きている程度の微細な動きも読み取られる(可能性がある)ということだと思う。
それ以上細かいことしようとすると、印刷で文字がつぶ れるみたいに、ただ真っ黒にしか見えなくなる。もちろんつくった本人には読み取れるんですが、作者ほど長時間一首の中にとどまってしまう読者、というのは普通いないと考えたほうがいいので。
連作「ペダルは回るよ」(『短歌ヴァーサス』第11号)より。
七時から先の夜には何もない シャッターに描き続けるドアを 我妻俊樹
この歌の上句では時間的な行き止まりを、下句では空間的な行き止まりを扱っているといえるでしょう。時間的な行き止まりの認識に対し、空間的な行き止まりにずらしてあがいている(開くことのできないドアを描いている)というねじれを、上下句の間に読み取ってもいいかもしれない。
七時に閉まってしまうシャッターの向こうに「七時から先の夜」にあるべきだった何かがあるのだとしても、シャッターに描いたドアは開かないので、そこへ行くことはできません。あるべき場所へは絶対に行けない、すなわち「ない」ということなのだという 確認のための、まわりくどい行為がここではひたすら「続け」られているのでしょうか。
連作「水の泡たち」より。
この歌の上句では時間的な行き止まりを、下句では空間的な行き止まりを扱っているといえるでしょう。時間的な行き止まりの認識に対し、空間的な行き止まりにずらしてあがいている(開くことのできないドアを描いている)というねじれを、上下句の間に読み取ってもいいかもしれない。
七時に閉まってしまうシャッターの向こうに「七時から先の夜」にあるべきだった何かがあるのだとしても、シャッターに描いたドアは開かないので、そこへ行くことはできません。あるべき場所へは絶対に行けない、すなわち「ない」ということなのだという 確認のための、まわりくどい行為がここではひたすら「続け」られているのでしょうか。
連作「水の泡たち」より。
その頭ぶつけてきたの豆腐屋の角をまがった夜ふけの風に 我妻俊樹
題詠blog2008、お題「豆腐」より。
「豆腐の角」と「豆腐屋の角」の大きな違い、などについてあれこれ考察する文章を書きかけましたが、やはり掲載するのをやめました。そんな文章を添付してしまった時点で、この歌の存在理由はほぼゼロになると気づいたからです。
つまりこれは、そういう歌なのだと思うんです。
題詠blog2008、お題「豆腐」より。
「豆腐の角」と「豆腐屋の角」の大きな違い、などについてあれこれ考察する文章を書きかけましたが、やはり掲載するのをやめました。そんな文章を添付してしまった時点で、この歌の存在理由はほぼゼロになると気づいたからです。
つまりこれは、そういう歌なのだと思うんです。
忘れてた米屋がレンズの片隅でつぶれてるのを見たという旅 我妻俊樹
連作「案山子!」(『風通し』その1)より。
『風通し』の合評ページで連作中とくに俎上に載せられた歌ということもあり、その後もいろんな場所で言及される機会が多くて、私の歌の中では一番人目にふれたし批評の対象にもされた歌ということになるでしょう。
この歌はもともと「忘れてた本屋が駅の北口でつぶれてるのを見るという旅」たしかこんな感じの歌としてストックしていたのを、連作を編むにあたり上記のようなかたちに改作したのでした。
改作前の状態でも全然私の基準では人前に出せる歌だけど、連作の場合私の意見より連作自身の意見が尊重されるので、顔色をうかがいながら手を入れていってああいうかたちになりました。それは私にとっては多く偶然による結果で、結果に対しやや不本意でさえありますが、「案山子!」という連作にとってはかなり必然の、こうなる以外にないという結果だったのだと思います。連作ってそういうものですよね。ルールが発生するというか。
連作「案山子!」(『風通し』その1)より。
『風通し』の合評ページで連作中とくに俎上に載せられた歌ということもあり、その後もいろんな場所で言及される機会が多くて、私の歌の中では一番人目にふれたし批評の対象にもされた歌ということになるでしょう。
この歌はもともと「忘れてた本屋が駅の北口でつぶれてるのを見るという旅」たしかこんな感じの歌としてストックしていたのを、連作を編むにあたり上記のようなかたちに改作したのでした。
改作前の状態でも全然私の基準では人前に出せる歌だけど、連作の場合私の意見より連作自身の意見が尊重されるので、顔色をうかがいながら手を入れていってああいうかたちになりました。それは私にとっては多く偶然による結果で、結果に対しやや不本意でさえありますが、「案山子!」という連作にとってはかなり必然の、こうなる以外にないという結果だったのだと思います。連作ってそういうものですよね。ルールが発生するというか。