悩殺せよ、悩殺せよと祈ってる にぎりこぶしをくちにくわえて 我妻俊樹
題詠blog2008、お題「悩」より。
にぎりこぶしを口にくわえたら、「悩殺せよ」と声に出して言うことはできません。したがってこの言葉は、心の中で唱えられたか、言葉にならないうめきのようなものとして、この場に漏れているだけだと考えることができます。
本当にそうでしょうか。私はこぶしを口にくわえることができないので、実際にたしかめてみたことがありません。つまり一首の読みから、「口にこぶしをくわえたまま『悩殺せよ』とはっきり声に出して言っている」という解釈を完全に排除していいのかどうか、確信がもてないのです。
もちろん、たとえこぶしをくわえられるだけの大きな口、または小さなこぶしを私が持っていたとしても、私の実験した結果がすべての「拳を口にくわえられる人々」と共有されるという保障はありません。たまたま私の結果だったものが、私のつくった歌の解釈を左右すると考えるのも作者の傲慢というものでしょう。
「悩殺せよ」の声ははたしてこの場に響いているのか否か。それが文字としてわれわれの目に読まれており、われわれは文字から一歩も出ていないという最初にあった事実以外、たしかなことは何も言えないようです。
「Witchenkare(ウィッチンケア)」という創刊されたばかりのリトルプレスに小説を載せていただいてます。
「雨傘は雨の生徒」というタイトルの、以前新潮新人賞の候補になった短編です。
取り扱い店、その他くわしいことは下記のブログにありますのでご確認ください。
ネット購入のできる書店もいくつかあるみたいです。
http://witchenkare.blogspot.com/
「雨傘は雨の生徒」というタイトルの、以前新潮新人賞の候補になった短編です。
取り扱い店、その他くわしいことは下記のブログにありますのでご確認ください。
ネット購入のできる書店もいくつかあるみたいです。
http://witchenkare.blogspot.com/
調度品をむやみに崖で買い込んで三叉路からは勘であるいた 我妻俊樹
題詠blog2009、お題「調」より。
わたしが短歌にもちこむことの多い言葉に、最近くわわったのが「崖」だと思う。
線路や道路など「道」的なもののアナロジーで短歌をとらえ、それらの語を歌にもちこむことも以前は多くて、いまも多いんだけど(掲出歌にも「三叉路」が出てきてる)、そこに「崖」的な把握が最近になって追加されたらしいということです。
短歌において崖を意識し、崖でものを考えるように短歌を考えるということ。それは定型と、定型の外との落差のようなものを地形に置き換えた把握ということになるでしょうか。
そこには質的な差はなく、ただ高低差だけがある。われわれが日常につかう言葉と同じ材質で、同じ規則をもった言葉でありながらそこに見おろす/見あげるような高低差を見いだせる、そういう短歌がつくれないだろうかと考えているうちに「崖」があらわれるようになったのだと思う。
コスプレ感というか、そこでいったん着替えて頭を切りかえてその垂直さを受け入れる、という(私にとっては)めんどうな手続きをとらなくていい垂直性、というものを短歌にどうやって獲得するか。
短歌をつくるためにそういうことを考えるというより、そういうことを考えるのが好きで私は短歌をつくるのだと思います。そういう考えごとの場に最近「崖」が登場したということです。
題詠blog2009、お題「調」より。
わたしが短歌にもちこむことの多い言葉に、最近くわわったのが「崖」だと思う。
線路や道路など「道」的なもののアナロジーで短歌をとらえ、それらの語を歌にもちこむことも以前は多くて、いまも多いんだけど(掲出歌にも「三叉路」が出てきてる)、そこに「崖」的な把握が最近になって追加されたらしいということです。
短歌において崖を意識し、崖でものを考えるように短歌を考えるということ。それは定型と、定型の外との落差のようなものを地形に置き換えた把握ということになるでしょうか。
そこには質的な差はなく、ただ高低差だけがある。われわれが日常につかう言葉と同じ材質で、同じ規則をもった言葉でありながらそこに見おろす/見あげるような高低差を見いだせる、そういう短歌がつくれないだろうかと考えているうちに「崖」があらわれるようになったのだと思う。
コスプレ感というか、そこでいったん着替えて頭を切りかえてその垂直さを受け入れる、という(私にとっては)めんどうな手続きをとらなくていい垂直性、というものを短歌にどうやって獲得するか。
短歌をつくるためにそういうことを考えるというより、そういうことを考えるのが好きで私は短歌をつくるのだと思います。そういう考えごとの場に最近「崖」が登場したということです。
今夜こそ麻酔の残るくちもとをゆらゆらさせてけりをつけたい 我妻俊樹
これがいい歌だとは贔屓目にもぜんぜん思えないけど、「麻酔の残るくちもと」の感覚を「ゆらゆら」と表現してるところがちょっと面白いかなと思いました。
題詠の歌はその時々の手癖がけっこう無防備に出てることが多いので、まとまった数つくることで手癖を意識できるという効果がある気がする。掲出歌は手癖以外の、ちょっと面白い表現の部分をつくった記憶がかなり薄れているので、その部分が今の自分と無関係に「ゆらゆら」してるように感じて気が引かれたのでした。
しかし何に「けりをつけたい」というのか自作ながらさっぱり読み取れません。
題詠マラソン2005、お題「麻酔」より。
これがいい歌だとは贔屓目にもぜんぜん思えないけど、「麻酔の残るくちもと」の感覚を「ゆらゆら」と表現してるところがちょっと面白いかなと思いました。
題詠の歌はその時々の手癖がけっこう無防備に出てることが多いので、まとまった数つくることで手癖を意識できるという効果がある気がする。掲出歌は手癖以外の、ちょっと面白い表現の部分をつくった記憶がかなり薄れているので、その部分が今の自分と無関係に「ゆらゆら」してるように感じて気が引かれたのでした。
しかし何に「けりをつけたい」というのか自作ながらさっぱり読み取れません。
題詠マラソン2005、お題「麻酔」より。
ヘッドフォンで殴りかかってきたくせに友達なのかキスしてくれ 我妻俊樹
これは自分ではけっこう気に入っている歌です。短歌をつくるということは、短歌で自分が出せる声に何らかの耳慣れない響きを付け加えることでなければつくる意味がない、と思うけど、去年はそういう面ではそれなりの成果があったという自己評価をしていて、その成果の一部を代表する歌だというのはたぶん自分にしか意味のないことだけど、自分にとってはけっこう重要なことです。
話し言葉が話しようもなく書かれる、という側面から短歌のなかで考えるべきことは多いと感じますね。私が短歌におぼえる興味はわずかな側面だけなので、そこだけ集中して偏って考えたということの記録として、録音するように歌もつくっていきたいものだと思う。
題詠blog2009、お題「達」より。
これは自分ではけっこう気に入っている歌です。短歌をつくるということは、短歌で自分が出せる声に何らかの耳慣れない響きを付け加えることでなければつくる意味がない、と思うけど、去年はそういう面ではそれなりの成果があったという自己評価をしていて、その成果の一部を代表する歌だというのはたぶん自分にしか意味のないことだけど、自分にとってはけっこう重要なことです。
話し言葉が話しようもなく書かれる、という側面から短歌のなかで考えるべきことは多いと感じますね。私が短歌におぼえる興味はわずかな側面だけなので、そこだけ集中して偏って考えたということの記録として、録音するように歌もつくっていきたいものだと思う。
題詠blog2009、お題「達」より。