喜劇 眼の前旅館 -12ページ目

喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

ガスコンロがいつのまにか水浸しになっている、ということが以前からたびたびあったが、今日それは薬缶に穴があいているせいだとわかった。
薬缶の底に穴があいたりするすることがあるのです。これからはミルクパンでお湯を沸かすことにします。
しばらくひたすら地面に穴を掘り進めるような極貧が続くはずなので、百円ショップの薬缶(があるかどうか未確認だが)でもちょっと買うわけにはいきません。
いただいた京大短歌を読む。土岐さんの連作がよかった。ああした路上観察型?の短歌については頭のあいたときにあらためてちょっと考察してみたいです。
作品が人間をえがくということや、この現実をえがくということは、必ず人間や現実から大部分が欠けた状態のものをつくることであり、人間や現実としてはあきらかに不完全なものが作品の中でだけまるで十全なもの(現実そっくりという意味ではなく、あくまで作品としてのいびつな十全さ)のようにみえる状態をつくるということですね。
短歌はつねに、おおいに欠けたものとしてありますが、そこから現実をより完全に回復させるためのルールを作品の外に整備することはあきらめていいのではないか。回復がつねに不完全に終わるということそのものを受け入れつつ、その不完全さがわれわれの側へ影響すること、つまりわれわれがけして同じ人間ではありえないし、同じ現実になど住んでいないということを確認する場として、短歌はいずれ発見されるし、すでに発見されてもいるのではないでしょうか。
同一のたった三十一音ほどで読まれる文字列のうえでさえ、われわれはどうしようもなくすれ違ってしまう。ただしそれがたった三十一音の距離であるために、話のかみ合わない、まるで似ていないらしいわれわれは、たがいの息づかいや体温のようなものを濃密に感じ取ることはできる。それは感じ取れるから、性急に共感など求めあわなくともわれわれは自分の孤独を、少なくとも爆弾のように抱え込んでいるものだとは思わなくとも済むでしょう。
“作品”とはそういう孤独であることの自由のための場所でもあるはずです。短歌を通してわれわれは“作品”を再発見することができるし、短歌をそのような“作品”として読み直すこともできるわけです。
バス停の先の日なたに置いてきたワゴンがとりあえずの目的地  我妻俊樹


なにげないようでいて、微妙に屈折したことを言っているというか、やっている歌ではないかと思います。「バス停」も「日なた」も私の歌の頻出単語ですが、そういう珍しさのないなじんだ言葉を使うと、微妙な複雑さに向かいやすいということはあるかと思う。
連作「助からなくちゃ」より。
小説で(ある程度は短歌でも)、私がしていることは人形遊びのようなことです。
人形を動かすにふさわしい空間を確保することが、小説を書くことのうち半分くらいの作業であり、何よりも優先されるべきことです。
人形の自由をけしかける種類の不自由さとして、その環境は確保されなければならない。人形の存在と無関係に魅力的である空間など必要ないし、動き回る空間をもたない人形は小説の登場人物ではない。
それがどんな人形なのか、そこがどんな空間なのかが問題なのではなく、人形が空間を動き回っているということじたいが大事なことです。人形が考え、しゃべり、歩き、眠り、立ち上がることが観測できる空間が必要です。それを邪魔するものは排除しなければならない。たとえ現実になくてはならないものであっても。
逆に、現実にあるべきでないものでも人形の動きをけしかけるなら何でもそこに置いてかまわない。すべては人形が決めることであり、しかしあくまでそれは人形であり、意思をもった人間などではないのです。人形の自由のために必要なものは、人間とはまるで違います。人間の尺度で持ち込むのではなく、あくまで人形自身に選ばせることが必要でしょう。意思のない人形がふらふらと動いていく方向に、道を敷いていくのが私の仕事です。すると人形は道を歩いているように見えるのです。
私の部屋は読みかけの本だらけです。なので栞がすぐに足りなくなります。読みはじめる本よりも、読み終わる本のほうがつねにずっと少ないからです。
読んでいることさえ忘れてしまっている無数の本に、私の手持ちの栞(文庫本についてきたのや、本屋でもらったの)のほとんどが挿まれてしまっている。何年もそのページから移動することもないままに。
いつか万が一続きを読むことがあるにせよ、どうせ内容を忘れてしまっているので最初から読み直さなければなりません。だから栞はもう意味がなく、抜き取って再利用すればいいのです。でもそんなことはできないのです。なぜなら、栞をけして抜き取らないというルールを崩してしまうと、今読んでいる本の栞もうっかり抜き取ってもいいことになってしまう。私の雑なルール感覚ではそうなるのです。それでは安心して読書を中断することができません。だからもう挿んでいる意味のなくなっている栞もそのページから移動してはいけない。絶対に。
そしてまた、読みかけの本はいつか必ず続きを読んで読み終えるのだ、という希望を捨てずにいたいということもあります。そのためのめくるべきページ残量を増やさないためにも、栞はここまでは確実に読んだという記念の場所から動かしてはならないのです。私にとって読書とはそのようなものでもあります。私は読書には向いてないのです。