作品が人間をえがくということや、この現実をえがくということは、必ず人間や現実から大部分が欠けた状態のものをつくることであり、人間や現実としてはあきらかに不完全なものが作品の中でだけまるで十全なもの(現実そっくりという意味ではなく、あくまで作品としてのいびつな十全さ)のようにみえる状態をつくるということですね。
短歌はつねに、おおいに欠けたものとしてありますが、そこから現実をより完全に回復させるためのルールを作品の外に整備することはあきらめていいのではないか。回復がつねに不完全に終わるということそのものを受け入れつつ、その不完全さがわれわれの側へ影響すること、つまりわれわれがけして同じ人間ではありえないし、同じ現実になど住んでいないということを確認する場として、短歌はいずれ発見されるし、すでに発見されてもいるのではないでしょうか。
同一のたった三十一音ほどで読まれる文字列のうえでさえ、われわれはどうしようもなくすれ違ってしまう。ただしそれがたった三十一音の距離であるために、話のかみ合わない、まるで似ていないらしいわれわれは、たがいの息づかいや体温のようなものを濃密に感じ取ることはできる。それは感じ取れるから、性急に共感など求めあわなくともわれわれは自分の孤独を、少なくとも爆弾のように抱え込んでいるものだとは思わなくとも済むでしょう。
“作品”とはそういう孤独であることの自由のための場所でもあるはずです。短歌を通してわれわれは“作品”を再発見することができるし、短歌をそのような“作品”として読み直すこともできるわけです。