喜劇 眼の前旅館 -13ページ目

喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

休止を撤回したとたん連続更新になっていますが、何か書き続けていないと保てないものが今私の中に発生しているためで、そのために書き続ける場としてしばらくここを使おうと思います。

あなたには正装した子供に見えるサボテンが点々と門まで  我妻俊樹


植物は人間に似ている。たとえば犬猫のように身近な動物や、猿のように人類と近縁の動物と比べても、植物のたたずまいにはたやすく擬人化の視線を受け入れるようなところがあります。
犬猫や猿には言動がある。しかし植物にはありません。だからわれわれが勝手に動かし、しゃべらせるための空白をわれわれとのあいだに持っている。しかもかれらの姿。かれらの多くは重力に屈せず直立しています。その姿勢のよさと、両手(のように見える枝葉)を地面につく気のないところは、動物界では人類だけの特権と看做されているものです。
われわれが自分の家の植物に服を着せる習慣をもたないのは(嫌がる犬に着せるよりずっとたやすいはずなのに)、何かそのあたりに原因のあることではないでしょうか。着せたら何かが決定的になってしまう。われわれはそのことを不安に感じているのです。
難解な批評といわれるものがあります。私はわかりやすく書かれた批評の価値は疑いませんが、多くの場合、わかりやすさはいわばわかりきったことを書くことで確保されているのも事実です。
われわれの言葉にとってある種のゆがみとして現れてくる文学作品を、ゆがみに寄り添って語れば批評はおのずと難解さを帯びます。いたずらに難解に言い換えているだけの批評と、語ることのそもそもの困難さが難解さとしてあらわれている批評はまるでべつなものです。
後者をさらに日常語へと近づけるサービスが、書き手本人または読者によってなされるのはありがたい。頭の悪い読者である私はそう思います。だが批評はそもそも理解しなければならないものなのでしょうか。もちろん理解できてもいいのだけど、そのうえで、批評が作品から私に手渡そうとしてくるものは、やはり理解することの絶対に不可能なものなのではないか、とも思うのです。
もしかすると批評が私に伝えようとするのは、「ここには理解不能な何かがたしかにある」という、ただそれだけのことではないのでしょうか。
ビデオでジョン・フォードの「捜索者」を見ました。私はジョン・フォードの映画がよくわからないのですが、最高傑作との声もあるこの作品を見ても、やはりよくわからない作家であるという感想は変わりません。嫌いではないし、見ていて心を揺さぶられる瞬間も何度もあるのですが、瞬間以上の長さにその感情が波及していかないのです。映画のほとんどの時間を平常心で過ごしてしまいます。けして退屈しているわけでもありません。

昨日「作品の適切な大きさ」について書きましたが、映画は映画館のスクリーンで上映されるのが適切な、あるべき大きさであるのは言うまでもありません。私はほとんどの映画をテレビ画面で見ています。巨大なスクリーンに包み込まれるように見ることと、二時間という時間に包み込まれるように見るという二つのことのうち、前者を欠いているわけです。私がわからないと感じる映画は前者に作品としての重心がある可能性があります。画面が小さくなるということは、どの映画にとっても平等なハンディキャップというわけではないからです。
図書館で借りた石田徹也の画集を見ています。以前ネットでこの画家の絵を見たときはあまり惹かれるところがなかったと思うのですが、あらためて画集で見るといい。この違いはパソコンの画面と紙の印刷物という、絵の置かれた環境の差もあると思うけど、いちばん重要なのは大きさだという気がします。
つまり、以前ネットで見たときは絵が小さくて、私の意識が視界に充てている面積に絵が一度におさまっていたと思うのです。するともともと寓意をつよく感じさせる作風でもあるし、絵が何かを意味する矢印として指し示す(ように見える)方向へ意識が移動してしまい、絵そのものは死角に入り見えなくなっていたのではないでしょうか。この画集に印刷された絵は、私の意識が視界に充てている面積より大きいので、視線が絵の中をさまようことができます。いわば私よりこの絵のほうが大きいのだと無理なく実感している。作品と私の関係が適切なものになっているようです。