短歌で考えたことを大きく引き伸ばすと、小説について考えたのと同じことになる。
ということは間々あるようです。
私は短歌も小説もとくに意味のない、事実無根のものを書くことが多いですが、そういう作品はどう書いても自由であるかのように見えるので、どう書いていいのか途中で見失って書けなくなることが多発します。
短歌でいえば、たとえば上句だけできてて下句をどうつないでいいかわからないとき、答えは上句の中にすでに書き込まれているはずだ、と考えることを私はおぼえましたが、この考え方は小説でもきわめて有効であると感じられます。
作品におけるものの見方や考え方の癖をつけるのに、短歌という狭い空間がまるで練習場のように効果的なのではないでしょうか。
私が最近短歌についてすごく気になるのは(そして小説も同じような目で見るようになっているのは)、つくり手にとっての自由と不自由のことです。
私が気になる歌というのは、つくり手が主体的に不自由さをひきうけている歌だと思う。
ここでいう不自由さとは定型のことではないです。同じ不自由さは小説にもあります。それは人生や物語がしいる不自由のことでもありません。
ここでいう不自由とは、言葉の中にのみあるものですが、日本語の規範がしいる不自由さというのともちがいます。われわれが日常やりとりする文章の中にはなく、文学作品にのみ生じている不自由さです。
いいかえると、作品の言葉に生じた不自由さが、作品自身を縛りつけているものだけが正しく文学作品なのだと思います。
私が気になる歌というのは、つくり手が主体的に不自由さをひきうけている歌だと思う。
ここでいう不自由さとは定型のことではないです。同じ不自由さは小説にもあります。それは人生や物語がしいる不自由のことでもありません。
ここでいう不自由とは、言葉の中にのみあるものですが、日本語の規範がしいる不自由さというのともちがいます。われわれが日常やりとりする文章の中にはなく、文学作品にのみ生じている不自由さです。
いいかえると、作品の言葉に生じた不自由さが、作品自身を縛りつけているものだけが正しく文学作品なのだと思います。
ネットで時間をどぶに捨ててる自分を見かけたら即刻死刑にして回らねばいけないのは引き続きですが、日記的なというか、思いついたことを脳の汁でメモする場所としてここはあけとくことにします。(気が迷ってツイッター再開したりしないように。)
自分を内側からコントロールする、というのは幻想に根ざした間違った発想であって、自分というものは他人のように外側からコントロールするべきなのだということの圧倒的な正しさ。少なくとも私のような凡人にとっては。を考える。
あることをするために本当に必要なことは、そのあることをしているあいだだけしか思い出すことができないのである。まるで夢の中でだけ(ここには以前にも何度も来たことがある)と思い出す、目が覚めるとまるで思い出せない町の景色のように。
だから何かをする事前の準備というのは本当は何もすることができなくて、実際に一刻も早くそのことをし始めてしまうしかないのだ。必要なことを思い出すための時間も必要なのだし。
だから事前の準備というのは、実際にし始めてしまうまでの決心のための準備、という以上の意味はなく、実際にし始めたそのことじたいには準備したものは何の恩恵もももたらさないのである。
自分を内側からコントロールする、というのは幻想に根ざした間違った発想であって、自分というものは他人のように外側からコントロールするべきなのだということの圧倒的な正しさ。少なくとも私のような凡人にとっては。を考える。
あることをするために本当に必要なことは、そのあることをしているあいだだけしか思い出すことができないのである。まるで夢の中でだけ(ここには以前にも何度も来たことがある)と思い出す、目が覚めるとまるで思い出せない町の景色のように。
だから何かをする事前の準備というのは本当は何もすることができなくて、実際に一刻も早くそのことをし始めてしまうしかないのだ。必要なことを思い出すための時間も必要なのだし。
だから事前の準備というのは、実際にし始めてしまうまでの決心のための準備、という以上の意味はなく、実際にし始めたそのことじたいには準備したものは何の恩恵もももたらさないのである。
しばらく更新を休止します。自作についてなら気軽に書きとばせると思ってたけど、回を重ねると今まで書いてないようなことを書かなきゃとか、変に気取りが出てきて書くのに時間かかってしまう。しかし書いてることは書きとばしレベルをキープ。というまずいサイクルに飲み込まれつつある気がしたので。
ツイッターも休止中ですが、逃避の場を減らしてほんらいやるべきことをやらないとまずい。非常に。
ツイッターも休止中ですが、逃避の場を減らしてほんらいやるべきことをやらないとまずい。非常に。
いつまでも真っ赤な小学校なわけ無いじゃないポストじゃあるまいし 我妻俊樹
短歌はもっと話し言葉でつくられていいんじゃないかという気がするけど、自分の歌にもあまりないですね。話し言葉というのは、まあじっさいには書いてるわけですが、だらだら書くことで話し言葉らしさが出るというところがある。そういうだらだらの中で、あるおもしろい瞬間を切り取ったような歌、ってのはおもしろいんじゃないか。
でもなかなかうまくいかなくて、やっぱりだらだらの一部を切り取ったというより、フレームの中で意識的にだらだらのふりをしてる、としか見えないものに大抵はなってしまう。そう見えるのが正しいというか、じっさいはそうなんだけど。
掲出歌は、そういうねらいの感じられる歌としてはうまくいってるほうじゃないか。という自分での判断です。現実というよりは芝居のセリフっぽいけど、だらだらした芝居(のようなもの)から切り取った数秒くらいには見えないかな? と。
短歌はもっと話し言葉でつくられていいんじゃないかという気がするけど、自分の歌にもあまりないですね。話し言葉というのは、まあじっさいには書いてるわけですが、だらだら書くことで話し言葉らしさが出るというところがある。そういうだらだらの中で、あるおもしろい瞬間を切り取ったような歌、ってのはおもしろいんじゃないか。
でもなかなかうまくいかなくて、やっぱりだらだらの一部を切り取ったというより、フレームの中で意識的にだらだらのふりをしてる、としか見えないものに大抵はなってしまう。そう見えるのが正しいというか、じっさいはそうなんだけど。
掲出歌は、そういうねらいの感じられる歌としてはうまくいってるほうじゃないか。という自分での判断です。現実というよりは芝居のセリフっぽいけど、だらだらした芝居(のようなもの)から切り取った数秒くらいには見えないかな? と。