畦道へ軽トラックが荷台から指示する人をバックで搬ぶ 我妻俊樹
連作「自転車用迷路」より。
これはたぶん実際に目の前の光景として見た場合、荷台にいて指示してる人の姿がいちばん目立つというか、真っ先に目につくと思うんですね。
でもこの歌で「指示する人」が登場するのはようやく四句目に入ってからであり、さらに結句にいたってはじめて軽トラックが「バック」していることが明らかになる。つまりこれは、目の前にある光景の自然な認識の順番ではないわけです。
このような認識の転倒を含んだ一文(のかたちをした短歌)に対し、定型のリズムが句ごとにカットを割るような効果をもたらすことで、一種の“映画”としての短歌があらわれてくることがあるのではなかろうか。
あくまで言葉のうえの出来事として、映像化することはできない“映画”を短歌のかたちで読んだと思う経験はたしかにあって、自分でもそういうことをしてみようと思ったのだと思う。
短歌のかたちをとるしかない“映画”。短歌の外に持ち出せない映像的な経験、というのは絶対にあるはずで、もう少しそのあたりには意識的でありたいという気がします。
アンテナに引っかかってる水泳帽 全部の窓が映すほどの雲 我妻俊樹
題詠blog2008、題「帽」より。
これは上句は上句、下句は下句でそれぞれ短い詩のようなものとして、その短さによって獲得される余白へむけた滲み、ひろがり、みたいなものを待っている感じの言葉のかまえをした歌、だと思います。
私のこのタイプの歌は、けっこう定型にもたれかかりすぎというか、短歌のフレームが行き止まりになることをあてにして二つの“詩”を手軽にぶつけちゃってることが多いと思うけど、この歌はあるひとつの、全体像のない事態を上下句がそれぞれの側面から言っているように見えるので、そういう定型への甘えはないかなと思う。言葉が定型に対してつつましい感じがして自分では好感が持てますね。
読み返して自己評価があまりぶれないので、完成度(自分の歌としての)は高い歌かもしれない。
題詠blog2008、題「帽」より。
これは上句は上句、下句は下句でそれぞれ短い詩のようなものとして、その短さによって獲得される余白へむけた滲み、ひろがり、みたいなものを待っている感じの言葉のかまえをした歌、だと思います。
私のこのタイプの歌は、けっこう定型にもたれかかりすぎというか、短歌のフレームが行き止まりになることをあてにして二つの“詩”を手軽にぶつけちゃってることが多いと思うけど、この歌はあるひとつの、全体像のない事態を上下句がそれぞれの側面から言っているように見えるので、そういう定型への甘えはないかなと思う。言葉が定型に対してつつましい感じがして自分では好感が持てますね。
読み返して自己評価があまりぶれないので、完成度(自分の歌としての)は高い歌かもしれない。
目線からはみだしている泣きぼくろ('82.3.10) 我妻俊樹
題詠マラソン2005、題「泣きぼくろ」より。
この「目線」はもちろん“上から目線”の目線じゃなくて写真にうつった人物の、顔が誰かわからないように入れる黒い線のことです。
私の歌ではよくあることですが、この歌は上句だけで意味的に完結しているようにも読めます。蛇足のように続けられる下句が、ここでは写真を思わせる上句に添えられた日付の位置にあり、また読まれるべき音数にくらべて字数がとても少ない。字というかほとんど記号ですね。ルビなしで誰でも七・七の音数で読めると思うんですが、それは短歌だからそう読むんであって、下句をぱっと見たらべつに読まずに一瞬で意味を理解してしまうはず。
その一瞬での理解が、実際に日付の入ったこのような写真を見たときに近い印象を、読む人に与えないだろうか。といったあたりを意識してつくった歌だと思います。このような写真(人物の目元が黒線で潰され、二十年以上前の日付を刻まれた写真)のもつ意味、を歌で語るのではなく、そのような写真そのものとして歌を提示したいという欲望があったのだろうと思うし、その欲望は今でもとてもよく理解できます。
追記
ここでいう“欲望”は視覚的な短歌への欲望みたいなものかなと思い、ということは横書きのネット環境にふさわしい短歌への欲望、のひとつともいえるかなという気がしますね。
横書き=視覚的である、といったことも含めた短歌の縦書き/横書きについての私の考えはこのあたりに書いてあります。
http://d.hatena.ne.jp/ggippss/20050129/p1
題詠マラソン2005、題「泣きぼくろ」より。
この「目線」はもちろん“上から目線”の目線じゃなくて写真にうつった人物の、顔が誰かわからないように入れる黒い線のことです。
私の歌ではよくあることですが、この歌は上句だけで意味的に完結しているようにも読めます。蛇足のように続けられる下句が、ここでは写真を思わせる上句に添えられた日付の位置にあり、また読まれるべき音数にくらべて字数がとても少ない。字というかほとんど記号ですね。ルビなしで誰でも七・七の音数で読めると思うんですが、それは短歌だからそう読むんであって、下句をぱっと見たらべつに読まずに一瞬で意味を理解してしまうはず。
その一瞬での理解が、実際に日付の入ったこのような写真を見たときに近い印象を、読む人に与えないだろうか。といったあたりを意識してつくった歌だと思います。このような写真(人物の目元が黒線で潰され、二十年以上前の日付を刻まれた写真)のもつ意味、を歌で語るのではなく、そのような写真そのものとして歌を提示したいという欲望があったのだろうと思うし、その欲望は今でもとてもよく理解できます。
追記
ここでいう“欲望”は視覚的な短歌への欲望みたいなものかなと思い、ということは横書きのネット環境にふさわしい短歌への欲望、のひとつともいえるかなという気がしますね。
横書き=視覚的である、といったことも含めた短歌の縦書き/横書きについての私の考えはこのあたりに書いてあります。
http://d.hatena.ne.jp/ggippss/20050129/p1
語り出すとは思えない葱を置くチェックの済んだマイクの前に 我妻俊樹
これはマイクの前に置くのが葱じゃなきゃいけないところがあると思うんですが、なぜかはよくわからない。マイクと形状が微妙に似てるような似てないようなところが理由でしょうか。
題詠blog2008、お題「葱」。
これはマイクの前に置くのが葱じゃなきゃいけないところがあると思うんですが、なぜかはよくわからない。マイクと形状が微妙に似てるような似てないようなところが理由でしょうか。
題詠blog2008、お題「葱」。
マイクロチップマイクロチップと口ずさみつつ潜み売るポテトチップス 我妻俊樹
三句から四句への句またがりというのはとくに、読み方としては大きく間をあけずに読めないんだけど、意味的には音の空白をまたいでつながっていくので、そこに何か口調のようなものがくっきり出てくるように思います。何かが語られている途中にはさまれる息継ぎ、のようなものとして、語っているのが息づかいをもつ何者かであるということを言葉の意味以前に伝えるというわけです。
呪文をとなえるみたいにあまり意味内容をもたないこの歌にとって、口調が出るというのはけっこう命綱になってるところなのかなと思いますね。短歌が呪文のようなものであるためには、読者ではなくあくまで話者がそれを唱えている、ということにならないとまずいと思うので。そこには微妙にして絶対的な一線があるのではなかろうか。
三句から四句への句またがりというのはとくに、読み方としては大きく間をあけずに読めないんだけど、意味的には音の空白をまたいでつながっていくので、そこに何か口調のようなものがくっきり出てくるように思います。何かが語られている途中にはさまれる息継ぎ、のようなものとして、語っているのが息づかいをもつ何者かであるということを言葉の意味以前に伝えるというわけです。
呪文をとなえるみたいにあまり意味内容をもたないこの歌にとって、口調が出るというのはけっこう命綱になってるところなのかなと思いますね。短歌が呪文のようなものであるためには、読者ではなくあくまで話者がそれを唱えている、ということにならないとまずいと思うので。そこには微妙にして絶対的な一線があるのではなかろうか。