畦道へ軽トラックが荷台から指示する人をバックで搬ぶ 我妻俊樹
連作「自転車用迷路」より。
これはたぶん実際に目の前の光景として見た場合、荷台にいて指示してる人の姿がいちばん目立つというか、真っ先に目につくと思うんですね。
でもこの歌で「指示する人」が登場するのはようやく四句目に入ってからであり、さらに結句にいたってはじめて軽トラックが「バック」していることが明らかになる。つまりこれは、目の前にある光景の自然な認識の順番ではないわけです。
このような認識の転倒を含んだ一文(のかたちをした短歌)に対し、定型のリズムが句ごとにカットを割るような効果をもたらすことで、一種の“映画”としての短歌があらわれてくることがあるのではなかろうか。
あくまで言葉のうえの出来事として、映像化することはできない“映画”を短歌のかたちで読んだと思う経験はたしかにあって、自分でもそういうことをしてみようと思ったのだと思う。
短歌のかたちをとるしかない“映画”。短歌の外に持ち出せない映像的な経験、というのは絶対にあるはずで、もう少しそのあたりには意識的でありたいという気がします。