批評の仕事 | 喜劇 眼の前旅館

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短歌のブログ

難解な批評といわれるものがあります。私はわかりやすく書かれた批評の価値は疑いませんが、多くの場合、わかりやすさはいわばわかりきったことを書くことで確保されているのも事実です。
われわれの言葉にとってある種のゆがみとして現れてくる文学作品を、ゆがみに寄り添って語れば批評はおのずと難解さを帯びます。いたずらに難解に言い換えているだけの批評と、語ることのそもそもの困難さが難解さとしてあらわれている批評はまるでべつなものです。
後者をさらに日常語へと近づけるサービスが、書き手本人または読者によってなされるのはありがたい。頭の悪い読者である私はそう思います。だが批評はそもそも理解しなければならないものなのでしょうか。もちろん理解できてもいいのだけど、そのうえで、批評が作品から私に手渡そうとしてくるものは、やはり理解することの絶対に不可能なものなのではないか、とも思うのです。
もしかすると批評が私に伝えようとするのは、「ここには理解不能な何かがたしかにある」という、ただそれだけのことではないのでしょうか。