いただいた早稲田短歌にちょっと前ツイッターで話題というか、論議の的になっていたこの歌も掲載されていました。
あれは製紙工場からの煙なんですみんなが上に行く用でなくて 山中千瀬
この歌のいいところは「何かすごく気になるものが見えてるんだけどそれ以上近づくことができない」みたいなもどかしい状態を読み手に経験させることではないかと思います。
それがただの思わせぶりに終わってないとすれば、近づいて行き止まりになる道の行き止まりそのものが充実しているということでしょう。たとえばツイッターで土岐友浩さんが指摘していたように「製紙」が「生死」と同じ音であること。それはまた「製死」という存在しない単語を呼び込もうともしますが、言葉の表面の意味としては製紙工場のものであるとはっきり語られている煙が、下句で否定のために持ち込まれたはずの「みんなが上に行く用」=火葬場の煙という連想によってさかのぼって“死にまつわる工場”という読み替えへと読み手を誘っている。「~用」という言い方も「業務用」「従業員用」などエレベーターを連想させるので、火葬場は実際には存在しないのに、エレベーターで「上」に運ばれる死者というイメージがここに実在する「工場」と結びついてしまうことで「生死(製死)工場」として歌の裏側から滲み出てこようとするわけです。
初句が「あれは製紙」で割れるところも「セイシ」という音に注意を向けさせることになっていると思う。絶対にそうは言わない(おそらく事実そうではない)にもかかわらず、「あれは火葬場の煙なんです」ということを必死に伝えようとしているかのような歌、だと感じました。それは話者がではなく作品が、話者の無意識であるかのように語ってくるわけですね。