このブログは去年前半ものすごく頻繁に更新したせいか後半ぱったりと更新が途絶えましたが、今年は一年を通して満遍なく適当に更新したりしなかったりを続けることを心がけたいと思う。自分の歌について書くのは気が楽だけどかなり飽きてしまったので、今年はなるべく他人の歌について深く考えずにうっかりコメントするような腰の軽いスタンスをつくりたいものだと思います。
あと今度こういうものに出演予定です。黒瀬珂瀾さんと斉藤斎藤さんがUstreamでやる短歌の番組。
Ustream短歌シンポ「からんとかろん(仮)」
http://www.ustream.tv/channel/namakaron
1月23日(日)20時~23時
お二人のすごい論客と同席して、どう考えても場違いな私は空気の読めない低レベルすぎる質問や、軽薄な雑談以上の話は提供できないと思いますが、きっとそういう役割(現場に二次会ムードを持ち込む係)だと思って腹をくくって出てきます。
会場でのナマ参加方法についてやその他続報は斉藤斎藤さんのツイッター(http://twitter.com/saitohsaitoh)でわかりますのでご確認ください。
ずっと止まってた題詠ブログのほう、締め切り間際に即詠で四十首くらい追加しました。
http://halfdoors.blog.shinobi.jp/
くちびるを女相撲の小結が腫らしてひからせている孤独に
いいですかこれは空耳あなたには真珠に値する人生がある
こういう感じの。まだ半分近く題が残ってるので気が向くたび引き続き即詠すると思う。
しかし即詠といっても実は何が即詠なのかよくわかってない。いちおう自分の定義ではいったん完成したのを寝かせて推敲、という作業を最初から入れない前提で且つ途中で意識を切らさずにつくったものが即詠です。だから極端にいうと何日かかって書いても即詠ということはありうる。要は即興の力みたいなのに開かれてるかどうか。まあ定義なんてどうでもいいんですが。
即詠すると自分の手癖がやたらと目立つか、逆に自分がつくった気がしないような歌になりやすい気がするけど、これは逆のことではないのかもしれない。どっちも自分がつくりたいとか表現したいとか思う前に出てきてしまったものという意味では同じではなかろうか。
http://halfdoors.blog.shinobi.jp/
くちびるを女相撲の小結が腫らしてひからせている孤独に
いいですかこれは空耳あなたには真珠に値する人生がある
こういう感じの。まだ半分近く題が残ってるので気が向くたび引き続き即詠すると思う。
しかし即詠といっても実は何が即詠なのかよくわかってない。いちおう自分の定義ではいったん完成したのを寝かせて推敲、という作業を最初から入れない前提で且つ途中で意識を切らさずにつくったものが即詠です。だから極端にいうと何日かかって書いても即詠ということはありうる。要は即興の力みたいなのに開かれてるかどうか。まあ定義なんてどうでもいいんですが。
即詠すると自分の手癖がやたらと目立つか、逆に自分がつくった気がしないような歌になりやすい気がするけど、これは逆のことではないのかもしれない。どっちも自分がつくりたいとか表現したいとか思う前に出てきてしまったものという意味では同じではなかろうか。
遊歩道に一周されても目ざめないわたしをみずうみと思っている 我妻俊樹
右側に瀬戸内海をくりかえしヒントのように怖れて暮らす 我妻俊樹
瀬戸内海はたぶん一度しか見たことも渡ったこともない(往復は一度と数える)けれど、瀬戸内海のように内側に向けて自らを映しあうような景色は島国の醍醐味ではないかと思います。隙間のような海に細かい島が無数に詰まってる、海の箱庭というか、日本列島の日本列島性があの隙間に合わせ鏡のように濃縮され、あそこからもう一度未知のミニ日本列島誕生が観測されそうな気配です。
短歌は日本列島によく似ている、という説を私は思い出したように時々唱えていますが、われわれ日本列島人の短歌的把握によって列島が被っている歪んだ箱庭宇宙美については、地形をこえた文化的・政治的歪みまで含めた鑑賞態度でいつか深刻に日本一周しながら検証してみたいものだと思います。
題詠blog2009、お題「瀬戸」(未投稿)。
瀬戸内海はたぶん一度しか見たことも渡ったこともない(往復は一度と数える)けれど、瀬戸内海のように内側に向けて自らを映しあうような景色は島国の醍醐味ではないかと思います。隙間のような海に細かい島が無数に詰まってる、海の箱庭というか、日本列島の日本列島性があの隙間に合わせ鏡のように濃縮され、あそこからもう一度未知のミニ日本列島誕生が観測されそうな気配です。
短歌は日本列島によく似ている、という説を私は思い出したように時々唱えていますが、われわれ日本列島人の短歌的把握によって列島が被っている歪んだ箱庭宇宙美については、地形をこえた文化的・政治的歪みまで含めた鑑賞態度でいつか深刻に日本一周しながら検証してみたいものだと思います。
題詠blog2009、お題「瀬戸」(未投稿)。
百年で変わる言葉で書くゆえに葉書は届く盗まれもせず 我妻俊樹
私は現代の書き言葉としての「口語」で短歌をつくっているわけですが、それがもっとも話し言葉寄りになっている時でも「十年や二十年では意味が分からなくならない言葉」を使うという基準は、ほとんど無意識のうちに守っているようだと思います。
言い換えればそれは「十年前や二十年前には意味が分からなかった(存在しなかった)言葉」を使わないということでもあるんですが、ほんとに全然使ってないという自信があるわけではなくて、絶対に使わないという信念があるわけでもなく、とくに意識しなくてもそういう言葉はたいてい外してしまう。そういうある意味“生きのいい”言葉は原則として自分が「作品」を作るときの眼中にはない、短歌はもとより、小説でもほとんど材料の候補として意識に挙がってこないということですね。
今売りの「短歌研究」の座談会を立ち読みしてきまして、これはすごく面白くて刺激的な座談会なのですが、その中で斉藤斎藤さんの「青空の彫りが深くて変な汗かわかないまま昼休み終る」という歌が解釈されていました。で、この歌の「汗」が労働でかいた汗として読まれてるのを見てあれれと思った。つまり「変な汗」というのは何か怖い目とか危ない目とかにあって冷や汗をかいたことを「変な汗かいた」って表現する、そういうクリシェがあることを踏まえて私はこの歌を読んでたけど、そのクリシェが成立したのってけっこう最近のことだったかもしれない、ということにその時気づいたのです。
「変な汗かいた」はたぶんテレビを通じて一般に広まった使い方だと思いますが、こういう時の「一般」というのは意外と狭いものだというようなことは、普段は意識しないけど、たまに強く意識することがある。短歌にこうした“生きのいい”言葉が使われていることを、読者としての私はいい意味でも悪い意味でもほとんど気にしないけど、たとえば先日ここでも読んだ山中千瀬さんの歌「あれは製紙工場からの煙なんですみんなが上に行く用でなくて」の「動詞+用」みたいな言い方も、話し言葉として広く自然に使われていることを踏まえて読む読者は意外と少ないのかもしれない、ということですね。これが慣用表現だということを踏まえないと読みが大きく変わってしまうというか、たぶん読めないと思うんですどちらの歌も。そこは現代の口語短歌が、文語や古語などに代わって読者に要求することになった一種の教養だと思うわけです。
私は教養がなくて文語や古語がわからないから、自分が作者にまわるときはできるだけあらゆる教養なしで読める歌にしたい、教養というか、歌の外に参照しなければならないものを最小限にとどめたい、という気分があるような気がします。「読みの共同体」みたいなものへの何か生理的嫌悪に近いものがあって、そんなもので読まれるくらいならむしろ誰にも読めない歌になりたい、とまで思っているわけではないけど、読者を差別しない作品というものは存在しないのが前提として、何かを知ってるかどうかという点では差別しないというのが自分が作品を作るときの無意識のルールにあるんだと思う。読者としてはべつにルールにないけど、作者としてはあるわけです。
掲出歌は連作「助からなくちゃ」より。百年後にも読める歌をつくりたいとはたぶん私は思ってなくて、もしそう思ってたら文語でつくってると思う。
私は現代の書き言葉としての「口語」で短歌をつくっているわけですが、それがもっとも話し言葉寄りになっている時でも「十年や二十年では意味が分からなくならない言葉」を使うという基準は、ほとんど無意識のうちに守っているようだと思います。
言い換えればそれは「十年前や二十年前には意味が分からなかった(存在しなかった)言葉」を使わないということでもあるんですが、ほんとに全然使ってないという自信があるわけではなくて、絶対に使わないという信念があるわけでもなく、とくに意識しなくてもそういう言葉はたいてい外してしまう。そういうある意味“生きのいい”言葉は原則として自分が「作品」を作るときの眼中にはない、短歌はもとより、小説でもほとんど材料の候補として意識に挙がってこないということですね。
今売りの「短歌研究」の座談会を立ち読みしてきまして、これはすごく面白くて刺激的な座談会なのですが、その中で斉藤斎藤さんの「青空の彫りが深くて変な汗かわかないまま昼休み終る」という歌が解釈されていました。で、この歌の「汗」が労働でかいた汗として読まれてるのを見てあれれと思った。つまり「変な汗」というのは何か怖い目とか危ない目とかにあって冷や汗をかいたことを「変な汗かいた」って表現する、そういうクリシェがあることを踏まえて私はこの歌を読んでたけど、そのクリシェが成立したのってけっこう最近のことだったかもしれない、ということにその時気づいたのです。
「変な汗かいた」はたぶんテレビを通じて一般に広まった使い方だと思いますが、こういう時の「一般」というのは意外と狭いものだというようなことは、普段は意識しないけど、たまに強く意識することがある。短歌にこうした“生きのいい”言葉が使われていることを、読者としての私はいい意味でも悪い意味でもほとんど気にしないけど、たとえば先日ここでも読んだ山中千瀬さんの歌「あれは製紙工場からの煙なんですみんなが上に行く用でなくて」の「動詞+用」みたいな言い方も、話し言葉として広く自然に使われていることを踏まえて読む読者は意外と少ないのかもしれない、ということですね。これが慣用表現だということを踏まえないと読みが大きく変わってしまうというか、たぶん読めないと思うんですどちらの歌も。そこは現代の口語短歌が、文語や古語などに代わって読者に要求することになった一種の教養だと思うわけです。
私は教養がなくて文語や古語がわからないから、自分が作者にまわるときはできるだけあらゆる教養なしで読める歌にしたい、教養というか、歌の外に参照しなければならないものを最小限にとどめたい、という気分があるような気がします。「読みの共同体」みたいなものへの何か生理的嫌悪に近いものがあって、そんなもので読まれるくらいならむしろ誰にも読めない歌になりたい、とまで思っているわけではないけど、読者を差別しない作品というものは存在しないのが前提として、何かを知ってるかどうかという点では差別しないというのが自分が作品を作るときの無意識のルールにあるんだと思う。読者としてはべつにルールにないけど、作者としてはあるわけです。
掲出歌は連作「助からなくちゃ」より。百年後にも読める歌をつくりたいとはたぶん私は思ってなくて、もしそう思ってたら文語でつくってると思う。