百年で変わる言葉で書くゆえに | 喜劇 眼の前旅館

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短歌のブログ

百年で変わる言葉で書くゆえに葉書は届く盗まれもせず  我妻俊樹


私は現代の書き言葉としての「口語」で短歌をつくっているわけですが、それがもっとも話し言葉寄りになっている時でも「十年や二十年では意味が分からなくならない言葉」を使うという基準は、ほとんど無意識のうちに守っているようだと思います。
言い換えればそれは「十年前や二十年前には意味が分からなかった(存在しなかった)言葉」を使わないということでもあるんですが、ほんとに全然使ってないという自信があるわけではなくて、絶対に使わないという信念があるわけでもなく、とくに意識しなくてもそういう言葉はたいてい外してしまう。そういうある意味“生きのいい”言葉は原則として自分が「作品」を作るときの眼中にはない、短歌はもとより、小説でもほとんど材料の候補として意識に挙がってこないということですね。
今売りの「短歌研究」の座談会を立ち読みしてきまして、これはすごく面白くて刺激的な座談会なのですが、その中で斉藤斎藤さんの「青空の彫りが深くて変な汗かわかないまま昼休み終る」という歌が解釈されていました。で、この歌の「汗」が労働でかいた汗として読まれてるのを見てあれれと思った。つまり「変な汗」というのは何か怖い目とか危ない目とかにあって冷や汗をかいたことを「変な汗かいた」って表現する、そういうクリシェがあることを踏まえて私はこの歌を読んでたけど、そのクリシェが成立したのってけっこう最近のことだったかもしれない、ということにその時気づいたのです。
「変な汗かいた」はたぶんテレビを通じて一般に広まった使い方だと思いますが、こういう時の「一般」というのは意外と狭いものだというようなことは、普段は意識しないけど、たまに強く意識することがある。短歌にこうした“生きのいい”言葉が使われていることを、読者としての私はいい意味でも悪い意味でもほとんど気にしないけど、たとえば先日ここでも読んだ山中千瀬さんの歌「あれは製紙工場からの煙なんですみんなが上に行く用でなくて」の「動詞+用」みたいな言い方も、話し言葉として広く自然に使われていることを踏まえて読む読者は意外と少ないのかもしれない、ということですね。これが慣用表現だということを踏まえないと読みが大きく変わってしまうというか、たぶん読めないと思うんですどちらの歌も。そこは現代の口語短歌が、文語や古語などに代わって読者に要求することになった一種の教養だと思うわけです。
私は教養がなくて文語や古語がわからないから、自分が作者にまわるときはできるだけあらゆる教養なしで読める歌にしたい、教養というか、歌の外に参照しなければならないものを最小限にとどめたい、という気分があるような気がします。「読みの共同体」みたいなものへの何か生理的嫌悪に近いものがあって、そんなもので読まれるくらいならむしろ誰にも読めない歌になりたい、とまで思っているわけではないけど、読者を差別しない作品というものは存在しないのが前提として、何かを知ってるかどうかという点では差別しないというのが自分が作品を作るときの無意識のルールにあるんだと思う。読者としてはべつにルールにないけど、作者としてはあるわけです。
掲出歌は連作「助からなくちゃ」より。百年後にも読める歌をつくりたいとはたぶん私は思ってなくて、もしそう思ってたら文語でつくってると思う。