喜劇 眼の前旅館 -32ページ目

喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

小説を書くことはある意味ロケ撮影みたいだ。これだという理想的な天候に出会って撮影が快調に進みだしても、いつまでその天候が続くかわからない。自分の頭が作り出してる天気なのだから自分で自由に操作できる、というものではないのだ。たとえば「いつまでこの天気が続くかわからない」などと不安が兆すこと自体が、天候に直接悪影響をあたえたりする。そういうことは実際のロケ撮影ではありえないことだ。
頭の中の世界で、頭の中の撮影隊による撮影。両者はどちらも自分の一部だから、どちらかの調子が悪くなったときにただ傍観してるわけにいかず、互いに悪影響を受けてしまう。その逆もあるわけだが、とにかくここでは運命の比喩ではなく実際に歯車が回っており、それは微妙に自分の意志に反応しつつそむいてどちら向きにでも回るのだ。
こういうことを日記に書き出すということは、つまりちょっとやばい兆しを感じているということだ。そう書き記すことでその状態が固定する、という可能性もあるが、書くことで形骸化するというほうへの期待をこめて書いてみた。小説というのは書けると思えば書けるし、書けないと思えば書けない。単純にそういうものだとも言えると思う。線路を敷きながら同時に列車を走らせる、ようなこの馬鹿げた作業に必要なのは、何よりも極度の楽観性だろう。
小説を書く。書いてるとすぐに煮詰まるので、何本か並行して同時に書く。なかなか先には進まない。書き出し部分だけとりあえず書いてみたものがどんどんたまっていく。いわば先に進まず、横にばかり広がる。
だが並行書きの、気分転換としての効果は上々だ。煮詰まってどうしようもなく価値がなく思えてきた文章を棄て、少し前にやはり煮詰まって絶望して棄てた文章のほうを読み直してみると、そっちが意外といけそうな気がしてきたりする。そのように次々と乗り換えて目先を変え、絶望をかわし、煮詰まりを回避し続けられればいいと思う。

あと私は、書くときはペースメーカーとか手本とかいう意味で何か並行して小説を読んでいたいのだが、そっちでも煮詰まり回避というか、ひとつの小説に引っ張られすぎて(私はじつに引っ張られすぎる)書くものが煮詰まるのを防ぐのに、いくつかの読み心地の異なる(しかし好ましい印象の)小説をとっかえひっかえ同時に読んでいくのがいいとわかった。
その場合、自分の作風とはまったくかけ離れてるけど好きだし軽くて読みやすい、という本を混ぜておくといいと思う。何かこう解毒的な意味あいで。
書かなくてはいけない時期。だから世界がぴかぴかして見える汁をしばらく脳から絶やせない。
それには映画を見続けることが、できることの中で一番効果的だと思う。昨日は鈴木清順「春婦伝」、ルイ・マル「ビバ!マリア」、エリック・ロメール「獅子座」今日はジム・ジャームッシュ「コーヒー&シガレッツ」、ポール・ヴァーホーヴェン「グレート・ウォリアーズ 欲望の剣」。
「グレート・ウォリアーズ 欲望の剣」(1985)は真性の変態映画でありながら(あるいは、であるがゆえに)生命への愛にあふれた何だかものすごい傑作。「獅子座」(1959)はぱっくり口のあいた靴をひもで縛って履き続ける無一文の男(働かない)が非常に身につまされた。私も“獅子座”であるどころか、この男と誕生日が同じ日(八月二日)だったし…。
いま何か大事な夢を見てた気がするのだが思い出せない。私は夢をひとつのストーリーとして憶えていることが皆無といっていいくらいないが、それはストーリーのはっきりしない散漫な夢ばかり見るからなのか、生来の記憶力の悪さがここにも出てるということなのか、どっちなのだろう。
二つは同じことのような気もする。夢というのはそもそも自分の脳が作り出すのだから、私は出来事をストーリー化して把握するのが苦手な頭であり、だから記憶力が悪いのでもあるし、またストーリーにならない散漫な夢も見るのだろう。そして私が小説でいわゆるストーリーが書けないことにもそれは繋がってくるし、短歌で構成のある連作がつくれないことも同じところから来てると思う。かといってひたすら細部に淫するタイプではなく、変に全体を把握しようとする癖があるのが厄介だ。
私は嫉妬心がもともとあまりないほうで、とくに最近はもう何を見ても心の嫉妬の針がぴくりとも触れない、といっていいくらい気持ちが平穏というか嫉妬不感症になってる。だけど演劇だけはなぜか見ると非常に嫉妬をかきたてられ、自分がその舞台をただ観てる側にいるしかない、その場で行われてることの人々の輪の外にいるしかないということに何だか胸苦しい気分になるということをさっき芝居のほうの(映画じゃないほうの)「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」を某動画で見てたら急に思い出した。嫉妬心の不足は私が社会の底辺で心安らかに生きられるための資質で、あるいは身につけた知恵かもしれないけど、つまりであるがゆえに底辺にいっぱなしな大きな理由のひとつだということも考えた。演劇の、時間と空間に縛られる感じを小説から多すぎる自由を削減するための擬態として借りられないかという下心で観てみたら、思いがけないことに気づかされたという次第。