小説を書くことはある意味ロケ撮影みたいだ。これだという理想的な天候に出会って撮影が快調に進みだしても、いつまでその天候が続くかわからない。自分の頭が作り出してる天気なのだから自分で自由に操作できる、というものではないのだ。たとえば「いつまでこの天気が続くかわからない」などと不安が兆すこと自体が、天候に直接悪影響をあたえたりする。そういうことは実際のロケ撮影ではありえないことだ。
頭の中の世界で、頭の中の撮影隊による撮影。両者はどちらも自分の一部だから、どちらかの調子が悪くなったときにただ傍観してるわけにいかず、互いに悪影響を受けてしまう。その逆もあるわけだが、とにかくここでは運命の比喩ではなく実際に歯車が回っており、それは微妙に自分の意志に反応しつつそむいてどちら向きにでも回るのだ。
こういうことを日記に書き出すということは、つまりちょっとやばい兆しを感じているということだ。そう書き記すことでその状態が固定する、という可能性もあるが、書くことで形骸化するというほうへの期待をこめて書いてみた。小説というのは書けると思えば書けるし、書けないと思えば書けない。単純にそういうものだとも言えると思う。線路を敷きながら同時に列車を走らせる、ようなこの馬鹿げた作業に必要なのは、何よりも極度の楽観性だろう。