アンナ・カヴァン『氷』読了。何かうまくいえないよさのある小説だと思う。こういう抽象的というか、比喩に流れがちでユーモアのない文章は本来好みじゃないけど、それが美的なほうには向かわず、何か朦朧とした霧のような中に神経症的なオブセッションが影のようにつねに感じられるところがいいと思った。掴みどころのない言葉が、美的な効果よりも実際掴みどころのないものを掴もうとすることにこだわることでそうなっているというか。
カフカの名を挙げる評をよく見るし、実際読んでいてあちこちに影響も感じるけど、カフカよりずっと想像力の丈が個人的なところもいい。それがつまり神経症、つまりカフカが統合失調症的であるのに対しての神経症的な作家ということかもしれない。何か普遍的な危機の暗喩としてではなくあくまで個人的な強迫観念をなぞっているように読めるし、そのこだわりがもたらす作品の“狭さ”を隠そうとせず、“狭さ”によってある種都合よく物語世界が歪められている感じもいい。そのあたりは作風が似てるわけでもないフィリップ・K・ディックとの共通性も感じる。私は個人の顔がその世界の地形として裏から浮き上がってくるような作品にだけ惹かれるのかもしれない。私小説が読みたいのではなく、構築されたフィクションの景色や人物がすべて作家の分身であるような、つまり悪夢のような小説だけが読みたいのだと思う。
妄想パートから現実パートに(あるいはその逆も)とくに断りもなく戻る語り方がけっこう無造作に見えるところもいい。無造作であることは繊細であることと矛盾しない。むしろ繊細さを欠いた作家ほどこういう部分で言い訳めいた細工を凝らしがちだと思う。
結末部分にただよう一抹の“甘さ”もけして甘美さではなく、ただ一個の飴玉がもたらす限りのものとして諦めたように提示されている。けれどその“甘さ”はこの世界に見出された唯一の救いであり、言い換えれば飴玉一個の救いしかここにはもう残されていないのだということが、美的な酔いとは無縁な、ひたすら覚醒した残り少ない言葉で示されている。
たった今変な夢、というか妙に疲れる夢を見ていた。
財布から小銭を出して、そこから三百三十三円を誰かに払おうとしている。ところがいったん数えて取り除けた硬貨がよく見ると、百円玉のつもりが十円玉だったり、十円玉が五円玉だったりして微妙に足りなくなってる。それでまた財布をさらうのだが、銀色に見えた硬貨がテーブルに置いたとたん銅色になったりして、何度数えてもちっとも金額が定まらない。最初財布を覗いたときは百円玉が五枚以上まじっているように見えたのに、最後にはどう数えても二枚しか見当たらなくなっていた。
金額へのせこいこだわりは実生活の経済状態を単に反映しているにすぎない。払おうとしていた相手は弟のようだが、ほかの誰かも混じっていた気がする。夢の中ではよく複数の知人が混じったような人が出てくるが、それは自分にとって意味的に重なる部分をもった人たちが、その重なった部分でひとつのキャラクターとなって登場するからだろう。それは人だけでなく場所でもそうだ。記憶というのはたしか意味的な重複部分を省略して圧縮かけて保存されてるはずなので、夢の中ではそれら記憶の解凍が十分に行われないということかもしれない。
つまり夢というのは保存用に圧縮のかかった情報の倉庫を、そのままひとつの世界としてじかに体験することだとも考えられる。普通は解凍してこっち側に取り出すことでよみがえらせる記憶を、圧縮された状態のまま自分の方があっち側へ行って直接体験するというわけ。
そのつもりがなかったが、なんか短歌の話っぽくなってきたので意識的にそっちへ持っていってみる。つまりこういうのはどうか。短歌的に圧縮のかかった言葉を解凍してこちら側で鑑賞するのではなく、圧縮のかかった状態のまま読み手があちら側へ行ってそのままの言葉のかたまりを体験する。ある種の短歌はそのように夢のアナロジーで考えることができるように思う。つまり短歌が一種の記憶の保管庫だとすれば、覚醒している読者がそこから記憶を回復させて取り出すのではなく、読者の方から夢を見るように向こうに降りていって保管庫という環境そのものを体験する。そもそも圧縮→解凍といってもいったん短歌にされてしまった以上、元の状態(というものが仮にあるとして)が十全に再現されることはありえないはずで、つまり詩といっても文学といってもいいと思うけど、そういうものになってしまった言葉は何らかの致命的な損傷があって回復不能なものだと思う。それが正しく回復されると信じられるのは、作品の外で共有される解凍キーをやりとりするグループが(おおっぴらにであれ、ひそかにであれ)成立してる時だけではなかろうか。
財布から小銭を出して、そこから三百三十三円を誰かに払おうとしている。ところがいったん数えて取り除けた硬貨がよく見ると、百円玉のつもりが十円玉だったり、十円玉が五円玉だったりして微妙に足りなくなってる。それでまた財布をさらうのだが、銀色に見えた硬貨がテーブルに置いたとたん銅色になったりして、何度数えてもちっとも金額が定まらない。最初財布を覗いたときは百円玉が五枚以上まじっているように見えたのに、最後にはどう数えても二枚しか見当たらなくなっていた。
金額へのせこいこだわりは実生活の経済状態を単に反映しているにすぎない。払おうとしていた相手は弟のようだが、ほかの誰かも混じっていた気がする。夢の中ではよく複数の知人が混じったような人が出てくるが、それは自分にとって意味的に重なる部分をもった人たちが、その重なった部分でひとつのキャラクターとなって登場するからだろう。それは人だけでなく場所でもそうだ。記憶というのはたしか意味的な重複部分を省略して圧縮かけて保存されてるはずなので、夢の中ではそれら記憶の解凍が十分に行われないということかもしれない。
つまり夢というのは保存用に圧縮のかかった情報の倉庫を、そのままひとつの世界としてじかに体験することだとも考えられる。普通は解凍してこっち側に取り出すことでよみがえらせる記憶を、圧縮された状態のまま自分の方があっち側へ行って直接体験するというわけ。
そのつもりがなかったが、なんか短歌の話っぽくなってきたので意識的にそっちへ持っていってみる。つまりこういうのはどうか。短歌的に圧縮のかかった言葉を解凍してこちら側で鑑賞するのではなく、圧縮のかかった状態のまま読み手があちら側へ行ってそのままの言葉のかたまりを体験する。ある種の短歌はそのように夢のアナロジーで考えることができるように思う。つまり短歌が一種の記憶の保管庫だとすれば、覚醒している読者がそこから記憶を回復させて取り出すのではなく、読者の方から夢を見るように向こうに降りていって保管庫という環境そのものを体験する。そもそも圧縮→解凍といってもいったん短歌にされてしまった以上、元の状態(というものが仮にあるとして)が十全に再現されることはありえないはずで、つまり詩といっても文学といってもいいと思うけど、そういうものになってしまった言葉は何らかの致命的な損傷があって回復不能なものだと思う。それが正しく回復されると信じられるのは、作品の外で共有される解凍キーをやりとりするグループが(おおっぴらにであれ、ひそかにであれ)成立してる時だけではなかろうか。
今日は雪が降るらしい。積もるかもとも。夕方から歯医者なのだが…。
かじかんだ手をさすりながら、洗濯の合間に穂村弘の歌ペスト5を選んでみた。
A・Sは誰のイニシャルAsは砒素A・Sは誰のイニシャル 穂村弘
秋になれば秋が好きよと爪先でしずかにト音記号を描く
あ かぶと虫まっぷたつ と思ったら飛びたっただけ 夏の真ん中
島のタクシードライバー敬礼の手首におんなものの腕時計
いくたびか生まれ変わってあの夏のウェイトレスとして巡り遭う
四首目は記憶で書いるのでいろいろ微妙に間違ってると思います。『ラインマーカーズ』に入ってないんだなこの歌。
リズムと意味(や表記)の関係がぎくしゃくした歌が多いのは最近の私の嗜好とも重なるけど、このベスト5は数年前に選んでても変わらないと思う。
私は穂村さんは原則塚本邦雄というよりずっと寺山修司に近いと思っているけど、このあたりは中ではかなり塚本っぽい方の歌ではないかなあ、と書き出してみてから思った。
(四首目訂正しました。「タクシー・ドライバー」→「タクシードライバー」、「女物」→「おんなもの」。音的には正確だったのが自分の記憶力を考えると驚異。3/7)
かじかんだ手をさすりながら、洗濯の合間に穂村弘の歌ペスト5を選んでみた。
A・Sは誰のイニシャルAsは砒素A・Sは誰のイニシャル 穂村弘
秋になれば秋が好きよと爪先でしずかにト音記号を描く
あ かぶと虫まっぷたつ と思ったら飛びたっただけ 夏の真ん中
島のタクシードライバー敬礼の手首におんなものの腕時計
いくたびか生まれ変わってあの夏のウェイトレスとして巡り遭う
四首目は記憶で書いるのでいろいろ微妙に間違ってると思います。『ラインマーカーズ』に入ってないんだなこの歌。
リズムと意味(や表記)の関係がぎくしゃくした歌が多いのは最近の私の嗜好とも重なるけど、このベスト5は数年前に選んでても変わらないと思う。
私は穂村さんは原則塚本邦雄というよりずっと寺山修司に近いと思っているけど、このあたりは中ではかなり塚本っぽい方の歌ではないかなあ、と書き出してみてから思った。
(四首目訂正しました。「タクシー・ドライバー」→「タクシードライバー」、「女物」→「おんなもの」。音的には正確だったのが自分の記憶力を考えると驚異。3/7)
「マッキラー」(1972)。ルチオ・フルチの映画としては例外的にストーリーがちゃんとしてる作品、ぐらいの先入観で見たけど、とくにラストでは涙で画面も曇るほど心をはげしく揺さぶられる。とんでもない傑作。救いのない世界に差し込むもっとも絶望的な光。張りぼての顔が削れながら崖を落下していく描写が、間抜けでもまして残酷でもなく(あるいは間抜けで且つ残酷でありつつ)ひたすらやりきれない感動と結びついてしまうとは。
URLメモ。
http://aghi.hp.infoseek.co.jp/V3.htm
http://f16.aaa.livedoor.jp/~aghi/shikei.htm
URLメモ。
http://aghi.hp.infoseek.co.jp/V3.htm
http://f16.aaa.livedoor.jp/~aghi/shikei.htm
短歌というのは一首で「作品」として十全なものではなく、やはり何か断片のようなものなのだと思う。
つまりその一首をしかるべき文脈の上に乗せることで、初めて機能するというか。現在の短歌が多く連作志向なのは、作者や読者のあいだであらかじめ共有されている文脈(価値観とか人生観とか)が希薄なので、歌という断片をそこに乗せていくことは期待できないということがひとつはあるのだろう(もちろん口語の情報量不足(というか定型とのサイズの合わなさ)、切断力の弱さなども一方では大きいけれど)。だから歌が機能するために必要な文脈を、作品自身が用意しなければならなくなる。それで連作という形式が必要になるのであり、いったん連作という文脈を外すと、いわゆる一首の独立性を保った歌であっても読者側の価値観で(連作的な文脈からいえば)曲げられ、簡単に誤読されるのだと思う。
行間を読む、なんてことを言うけれど、それは行間の空白にわれわれが共有する文脈の支配があるからこそできることに違いない。とくに短歌というのはほとんど行間でできているようなジャンルで、行間の空白が本当の空白(あらかじめそこにうっすらと答えが書き込まれていない)になってしまうと、どう読んでいいのかさっぱり分からないものになる。そのことが短歌をめぐるグループ間(行間の文脈を共有するグループ間)の苛立ち合いや無関心の一因になるのだろう。
最近の斉藤斎藤による膨大な詞書のある連作は、かつて行間の空白を埋めていた透明な文脈の支配が失われたのちに、いわば本当の空白になってしまった行間をかわりに目に見える言葉で埋めている状態だとも考えられる。
それは行間に文脈が今や機能していないにも関わらず、あたかも「正しい行間の文脈」があるかのごとくふるまう横暴な読みを、予め封じるやり方かもしれない。あるいは空白で途方に暮れる読者へのナビゲーションでもあるのか。もちろんどんなに言葉がみっちり書き込まれても行間が消滅することはないが、斉藤の作品にある行間のサイズはもはや短歌のそれではない。短歌の行間は(たとえ連作という一時的な文脈がつくられていたとしても)すでに行間としての機能を失っているという判断がそこには感じられる。
私はここで反対側に行きたいというか、行間が本当に誰も何ひとつ読み取れない空白であることを前提にしつつ、短歌がいびつな断片として意味ならぬ意味を波紋のように広げる空間として、その空白を利用したいという気分がある。そうなるとしかし連作の行間でさえ窮屈すぎるという体感があり、かといって短歌が一首でぽつんと成立できる場所などどこにもあるはずがないと感じる。あるとすれば歌会とか何か短歌が安心して「作品」じゃなくていられる場、だけなんじゃないかと思うのだが、「作品」であることを断念して何かよく見ると無視できない断片のようなものをぽろぽろ落としていけばいい、と思い込めるところにはまだ行かない。やはり「作品」として成立させたい、させる手はないかと思ってしまう。
つまりその一首をしかるべき文脈の上に乗せることで、初めて機能するというか。現在の短歌が多く連作志向なのは、作者や読者のあいだであらかじめ共有されている文脈(価値観とか人生観とか)が希薄なので、歌という断片をそこに乗せていくことは期待できないということがひとつはあるのだろう(もちろん口語の情報量不足(というか定型とのサイズの合わなさ)、切断力の弱さなども一方では大きいけれど)。だから歌が機能するために必要な文脈を、作品自身が用意しなければならなくなる。それで連作という形式が必要になるのであり、いったん連作という文脈を外すと、いわゆる一首の独立性を保った歌であっても読者側の価値観で(連作的な文脈からいえば)曲げられ、簡単に誤読されるのだと思う。
行間を読む、なんてことを言うけれど、それは行間の空白にわれわれが共有する文脈の支配があるからこそできることに違いない。とくに短歌というのはほとんど行間でできているようなジャンルで、行間の空白が本当の空白(あらかじめそこにうっすらと答えが書き込まれていない)になってしまうと、どう読んでいいのかさっぱり分からないものになる。そのことが短歌をめぐるグループ間(行間の文脈を共有するグループ間)の苛立ち合いや無関心の一因になるのだろう。
最近の斉藤斎藤による膨大な詞書のある連作は、かつて行間の空白を埋めていた透明な文脈の支配が失われたのちに、いわば本当の空白になってしまった行間をかわりに目に見える言葉で埋めている状態だとも考えられる。
それは行間に文脈が今や機能していないにも関わらず、あたかも「正しい行間の文脈」があるかのごとくふるまう横暴な読みを、予め封じるやり方かもしれない。あるいは空白で途方に暮れる読者へのナビゲーションでもあるのか。もちろんどんなに言葉がみっちり書き込まれても行間が消滅することはないが、斉藤の作品にある行間のサイズはもはや短歌のそれではない。短歌の行間は(たとえ連作という一時的な文脈がつくられていたとしても)すでに行間としての機能を失っているという判断がそこには感じられる。
私はここで反対側に行きたいというか、行間が本当に誰も何ひとつ読み取れない空白であることを前提にしつつ、短歌がいびつな断片として意味ならぬ意味を波紋のように広げる空間として、その空白を利用したいという気分がある。そうなるとしかし連作の行間でさえ窮屈すぎるという体感があり、かといって短歌が一首でぽつんと成立できる場所などどこにもあるはずがないと感じる。あるとすれば歌会とか何か短歌が安心して「作品」じゃなくていられる場、だけなんじゃないかと思うのだが、「作品」であることを断念して何かよく見ると無視できない断片のようなものをぽろぽろ落としていけばいい、と思い込めるところにはまだ行かない。やはり「作品」として成立させたい、させる手はないかと思ってしまう。